『浪』 波の音は繰り返し繰り返し、いつまでも続いていた。
「義母上」
「――――喧嘩を売っているのならいつでも買いますよ、エルロンド」
「そろそろ準備が整います、どうぞ船内へお入りください」
洒落で言ったことを、さらりと喧嘩腰に返されて、さらにそれを見事に素通りして彼らの会話は続いた。
思えばいつもそうだった。いつも、彼ら義理の親子にして、親戚関係の２人の会話はこんなふうに殺伐と
しているのか話の通りが早いのか、余人には判断がつきかねる種類のものだった。
「波を見ていたのです」
「波など船から嫌というほど見られますよ」
諸管理はきちんと規則通りに進むことが嬉しく幸せな性格と、誰の生命に関わる訳でもないのなら己の
意を通す性格のぶつかりあいは果てしなく平行線だった。
「珍しいのですよ。中つ国へ渡って来て以来、一度も海を見たことはありませなんだ」
「それはまた、大昔のお話で」
「ぐーで殴りますよエルロンド」
「ネンヤを嵌めた手でぐーはお止めください。本当のことでしょう！あなたが中つ国へ渡ってきたのは、私が
生まれるずーっとずっと前のことです。止めてくださいったら！」「……つまらないことを言う口ならふさいでしまおうかしら？ついに海を前にしてしみじみと懐かしんでいると
いうのに、風流を解さない婿って嫌だわ」
「解さなくて結構ですから早く船に乗ってください」
はっきり意って、この役目はエルロンドにしか出来なかった。いまや中つ国で最も高貴なエルフの婦人で
あるガラドリエルに意見がましいことを言える者は多くはなく、ガンダルフあたりならビシバシ言えるだろうが
生憎今はホビットたちの別れの場にかかりきりだった。
「カリカリしていやね。娘と養い子を置いていくせいかしら？ 向こうへ行けば妻に父母には会えるっていうの
に、後ろ向きで……苦労症なんだから」
「あなたにとっても孫ですよ、アルウェンは」
「とても残念だけど、そういうこともあるのよ。殿ならこういう情趣も分かるというのに……」
わざとらしく嘆息して見せるガラドリエルだった、もちろんエルロンドは知らんぷりをした。同船することになっ
ている、すべてのエルフがこのやりとりを気にしていた。平気な顔をして、キアダンも髭の向こうでハラハラし
ていた。中つ国のエルフについて、このエルフほどよく知っている者はいなかったからだ。
ガラドリエルが過去の追憶にひたってしまったら、それは時間がいくらあっても足りないだろう。それは分かる。
分かるがしかし。「さあもう行きますよ。――――名残など、はじめから尽きる訳がないのですから」
「あそこはとても美しいところで、そこには父母も兄たちも、娘でさえいるのは分かっているのに」
ガラドリエルの、並ぶものなき金の髪が海風にたなびいた。
「何故こんなに後ろ髪ひかれる思いがするのでしょうね、エルロンド」
「そう思っておらぬ者などおりませんよ。さあ参りましょう。癇癪を起こしたミスランディアに杖で一撃入れられたく
はないでしょう？」
「ああ、笑ってはいるけれど、行きは一緒だった賢者団と共に帰れないので拗ねているのよね」
「ガラドリエル……」
概ねの者がそうであるように、すべてを見通す力を持つ森の奥方にかかっては、西から来た賢者も形無しだった。
「海からの呼び声には、ずっと耳を塞いでいました。海も、こうして見ると美しいものですね」
その下に沈んでいるものに、思いいたせばなおさら。
「木々の緑には叶いませぬよ」
「ウルモに叱られますよ、エルロンド」
「趣味の問題ですから」
ころころと笑うガラドリエルはやっと足先を船に向けた。エルロンドは鹿爪らしい顔をしながらも安堵して後に続いた。「長い滞在だったこと！こんなに長くなろうとは」
「思い設けぬことなど、生きていればいくつもあるものですよ」
「まったくそうね」
笑うしかなかった。彼らの生涯は長い、笑えない思い出など、今となってはひとつもなかった。
船への１歩を記しながら、ガラドリエルはくすくすと笑いつづけた。
「さあ、久しぶりのヴァリノールにはどんな冒険が待っているかしら？」
「せめて『楽しみ』と言って下さい。一族の者や、旧友に会うのは懐かしいでしょう」
「まあエルロンド、わたくしの行くところですよ？ 山あり谷ありに決まっているではないの！」
「……高らかに宣言しないでください……」
「これがノルドールの特性です。あなたも覚えておいた方が良いわよ」
そろそろ出航いかが？とまた合図が送られた。それにガラドリエルとエルロンドは鷹揚に頷いた。ホビットたちとガン
ダルフの別れもはやすんで、西へ船出するものはすべて白い船に乗り込んでいた。
「海風が快いわ」
「誠に」
誰の口からも、ついに別れの言葉はなかった。それは必要ないものだったからだった。
「旅立つにはいい日だことね」
「まったくです」
それでも。
いつまでも来し方の岸を見るのは、やめられなかったけれども。
『波』といったら『海』、『海』といったら『船出』
そんなわけでガラドリエル様たちの船出です。
エルロンドたちの船出も気になるし、
レゴラスたちの時も気になる。
ケレボルンや双子や、スランドゥイルももちろん。
忘れちゃいけないサムもです！
ガラドリエル様だったら、その気になったらグロールフィンデルのように
ひょっこり中つ国へやってきてくれそうに思うんですが（笑）。