「い……っ…ぁ……」
消え入りそうな声でヴィゴはそう言った。
そう言われてしまっては、イアンとしても、手を止めるしかなかった。しかし。
「だめっ！」
手を引こうとすると当のヴィゴに怒られるのだった。さっきからこれのくり返しだった。
キングサイズの大きなベッドの上で、脱がせあったのでほぼ素っ裸で、さあしましょうとお膳立てはバッチリのこの状態で、やっていることといえば下手なポルノのなりそこないだった。
「やだやだやだ！」
今日こそやるんだい！とヴィゴは駄々っ子のように手足をジタバタさせた。上手くいかないイアンとのセックスに、相当に焦れていた。
「そうは言ってもね」
この状態じゃね、とイアンはため息を押し殺して言った。それでも、雰囲気というのは伝わるもので、たちまちヴィゴのまなじりが吊り上った。「……イアンは、俺とやりたくないのかよ」
はっきり言って怖かった。その、底冷えするような声音と眼差しは。
「もちろんやりたいよ」
ここ見てごらんほらこんなだろう？とヴィゴの手を取って、さっきからさんざんな目にあってもめげずにいる、愛すべきイアンの相棒に触れさせた。
「じゃあなんで？」
ヴィゴはかわいく小首を傾げた。本人無意識の癖なのだが、イアンのハートを直撃するには充分だった。
「どうしてさっさとやんないの？」
本当の本気で多分聞いているのだ。およそヴィゴは、本気でないことなど言わない。良くも悪くも自然体、まっさらな状態の、まさに自然児なのだった。男同士のセックス、なんて自然なんだか不自然なのか分からないことに血道を上げているけれど。
「もしかして俺のこと嫌いなの？」
魅力ない？やりたくならない？などという、とんでもないことまで言うに及んで、イアンのモノはちょっと萎えた。あ、元気なくなった、とまたヴィゴが、ご丁寧に実況までしてくれた。「……嫌いだったらそれこそ、こんなに四苦八苦してないと思わないか、ヴィゴ？」
脱力をこらえてイアンは言った。それでもヴィゴはきょとんとしていたけれど。
「じゃあどうして？」
これはわざとだ。聞きたくなったから、わざとそんな風に言っているに違いない、そんな感じが加わった。にしゃっと笑う、かの有名な英国不可思議小説に出てくる猫みたいに。
いっそのこと、我慢できなくて、傷つこうがぶち破ろうが気にしないでやったほうがいいとでも言うんだろうか？そのほうが、ワイルドで素敵とか、愛されてる感じがするからとか。
そんなことを考えているだけで、ちょっとこの自制心が持つかどうか、イアンには自信がなかった。自信も自制心も、最大マグニチュードのように、ぐらぐらしはじめていたので。
「う…わ……」
ヴィゴは驚いて声を上げたけれど、イアンは気に留めなかった。自分の気づかいが、まったくむなしくなりそうだったからだった。とてもとても愛しいヴィゴ、大事にしたいのと同じくらい引き裂きたいとすら思ってしまう気持ちの箍が、どうやらゆるんでしまったようだった。「わ……ちょっとイアン……」
「何？」
ヴィゴの両足首をつかんで、持ち上げるようにして足を開かせて、すでにローションでぬとぬとになっている場所に舌を這わせながらしゃべると、さすがにヴィゴも息をのんだ。
「ちょっとちょっと……イ…ァン……」
「だから何？」
しゃべると、そのたびにヴィゴは目を閉じた。そのとき一緒に口も閉じるものだから、なかなか話は進まなかった。
「怒っ…た…？」
急にこんな声を出すから、反則だと思うのだ。
凶暴な気分になっても、気持ちがにぶってしまう。
もっとも、瞬間最大風速的にそんな気持ちに襲われても、繊細なガラス細工よりもこわれやすい、貴重なたからもののような相手に、本当にそんなことが出来るわけもないのだが。イアンには特に。
「――――怒ってないよ」
本当に怒っていても、そう言いたくなる声だった。おまけに涙目になっているといったらもう。「ごめんなさい……」
しゅんとして手をさし伸べる。これももしかしたら、手かもしれいないんだけどなぁ、と思いつつ、その手を拒めないんだから、ある意味同罪だ。そう観念しながら、イアンはその手を取った。
「もう少しほぐしておこう。ほら、まだこんなだ」
イアンは、ヴィゴの手を握って、その場所に導いた。
「もうちょっとやわらかくしておいたほうがいい」
「そ、……なの？」
刺激を受けて、ヴィゴのものは確かに反応していたりもするのだが、後ろへの刺激だけで達せるほどではないし、ましてや男を受け入れられるだけの準備は整ってはいなさそうだった。
「やっぱり道具使ったほうがいいのかなぁ？」
何か慣らすのがあったよね？とヴィゴは言った。目に涙を、浮かべたまま。
「それは最後の手段として取っておこう、ヴィゴ。もう少しここを……」
そう言って、イアンが舌を這わせると、ヴィゴは身を竦ませた。どうしてもそうなってしまうようだった。
嫌なんじゃないから、お願いだからやめないで、と何度も何度も言っていた。そのたびにイアンもはげますようにうなずいて。それでもそのときはとうとう、最後までいくことは出来なかったけれども。
「……そんなこともあったけなぁ」
イアンはつれづれの回想タイムを終えて、ぽつりと言った。
あの頃はかわいかったなぁ、いや今ももちろんあまるほどかわいいけども、などと思っていると当の相手がのたまった。
「何か言った？トイレ行きたい？」
俺がさせてあげるよ〜と楽しそうに言うヴィゴは、イアンへのたのしいおしおきキャンペーンの真っ最中だった。
「いやトイレはまだ。さっき行ったばかりだし」
「そか、残念だな」
せっかく行かせてやろうと思ったのに、とヴィゴは心底残念そうににそう言った。
船旅を終えて上陸して、そこからの移動は車だった。車だったのだが、その車にイアンを乗せるにあたってヴィゴは。「はい、イアン手出して」と言ったのだった。ここで「何で？何するの？」などと疑問を抱いてはいけない。思うだけならいいが、そういう気配に聡いヴィゴにはバレないようにしなくてはならないし、逆らうなどというのは論外だった。
「はい」
言葉どおりにイアンは両手を差し出した。それを横目で見ながら船のこと、移動の手配をしている仲間たちはみな、心の目頭を押さえた。その昔ならいざ知らず、最近ヴィゴが『王様』としての効力を発揮するのは、もっぱらイアンに対してばかりだったので。
救いは、イアンがそれをほぼ、ちっとも嫌がっていないということだった。差し出されたイアンの手をまず、ヴィゴはひとまとめにした。それから、荷物を縛るときなどに使うカラフルな色合いの幅広ナイロンテープを取り出すと、くるくるとイアンの手首を縛り始めた。
イアンはヴィゴの手際の良さを見ながら心中ため息をついた。そんなことだろうと思ったというか、手馴れたもんだなぁと感心したりもして。さらには両腕ごと、身体もぐるぐる巻きにされたりなんかして。その上ヴィゴの、小脇に抱えられたりなんかもしたりして。ああもうまったく。
「……いいけどね」
イアンの呟きは、エンジンのかかった車の音にかきけされた。
そもそも上機嫌で、鼻歌のひとつも歌いだしそうなヴィゴが、小さな小さなイアンの呟きが、聞きとれるとも思えなかったが。
「さあ帰ろうな、イアン♪」
ドアを開けてもらって、ごく丁寧にイアンを座席に放り込んで、後から自分も乗り込んで。
ヴィゴが乗るのを待って、やがて動き出した車の座席に、芋虫のように転がされているイアンをなでなでしながら、ヴィゴは本当にご満悦だった。よしよしとか、いいこいいことか、通常成人男子には、そうそうかけたりしないような言葉をかけながら。つまりはきっと。「窓を少し開けてもらえないかい？」
転がされ撫でまわされという、考えようによってはセクハラのようなことをされていたイアンがそう言ったのは、大分行程が進んでからだった。
「窓？暑い？上着脱がしたほうがよかった？」
と言いつつもヴィゴはウィンドウを細めに開けた。
「いや……ああ、草の匂いがする」
「帰ってきたって気がするだろう？」
「するね、この匂いを嗅ぐと」
「あんな舗装されまくったとこになんているから」
言葉の途中でヴィゴは、イアンを抱きかかえるようにして覆いかぶさった。
「何あんた、俺が目を離すとダメなの？うっかり捕まるなんてサイテーだよ？」
「その節はどうも、ご心配をおかけしました」
「まったくだ、悔い改めるように」
「改めるからヴィゴ……」
「なに？」
「あまりわたしを放っておかないように」
絵を描くことに、熱中するのもいいけれど、かまってくれないと暇の挙句に何するか分からないから、とイアンが言うと。
「脅迫する気か？」
上等じゃないか、と笑いながらヴィゴは言った。イアンも、くすくす笑いながら答えた。
「とんでもない――――お願いだよ」「きいてやってもいいぜ。あんたが俺の側で、いいこにしてるんならな」
ちゅっと、音を立ててイアンの頬にキスをした。
「ちょ……ヴィゴ、まだ車の中……」
「うるさいよ。手間かけさせたんだから、報酬よこせ」
ヴィゴはイアンに覆いかぶさったまま、手を伸ばしてイアンをもてあそび始めた。
「それに、外からも運転席からも見えないから大丈夫」
窓はとっくに閉められていた。いつの間にか風を感じなくなっていたことに、イアンはそのときやっと気がついた。
「報酬って…それはもう……船の中でもたっぷり……」
「あれは手付け」
そううそぶいて、ヴィゴはイアンの耳に齧りついた。甘噛みしながら、もういっぽうの手を、イアンのシャツのあわせからしのばせていった。
「なあ……もうたまんないんだよ、かわいこちゃん」
「……オヤジ発言……」
「楽しいぞぉ、オヤジごっこは。帰ったらキモノ着たのもしよう♪」「またあれやるのかい……」
「なんだよ、嫌なのか？」
せっかくあんたのためにキモノ用意したのに、と『』がふくれると。
「――――お望みのままに」
イアンのその返事で、ヴィゴはたちまち機嫌を直した。そしてイアンをいたぶる手の動きを再開させた。
「安心しな、最後まではやんないから」
「それはそれでしんどいかも……」
「俺に無茶させたくなかったら」
イアンの耳に、ヴィゴは息とともに言葉を吹き込んだ。
「もう悪いヤツに捕まったりしないように」
厳かにヴィゴは宣言した。
「は…い……」
触れたかと思うと離れていく、こわごわと触る飾り戸棚の中のきれいなものを触るようなタッチの、巧みなヴィゴの指使いに眉をしかめながら、イアンは懸命に答えた。その返事に、ヴィゴは笑った。眉をしかめたイアンが、見ていないのが惜しいほどの顔をして。
唯１人の相手を、とてもとても大切でこわれるようなことなど、考えたくもないものとして。
