「はふ……」
ため息をついた。お母さんごめんなさい、ここのところわたしは、幸せを逃すようなことばかりしています。
信じられないようなことの連続だった。
まず、公文書をサクっと偽造してしまったし、それなのにラスティたちを逃がしてしまうし、
そのラスティに「お父さんに会いに行かない？」なんて誘われてほいほいついてきてしまうし、しかも生死不明の父親にも会ってしまった。
これまたお母さんごめんなさいかと思っていたら、父から会いに来るのはダメ、ということになっていたけれど、こっちから探して会いに行くのは可、
ということになっていたらしく亡き母の意に背いていなかったのは幸いだった。
「まあ飲め」
海岸沿いのまぶしい日の中座り込んでいると、ラスティがカラフルなカップを目の前に出した。
「ありがとう、コレ何？」
「オレンジジュース」
そう答えるラスティは、ちゃんとフライドポテトを頬張っていた。もぐもぐとしているふくらんだ頬が、リスか何かみたいでかわいかった。
「ありがとラスティ……」
そう呟いて、冷たくて甘い液体に口をつけた。
一口飲んだら、ずいぶんと喉が渇いていたみたいで、ごくごくといってしまった。喉越しの甘さが、とても美味しかった。
ぷはっと開けると、立ったままだったラスティが、空いたカップを取って、くしゃっと丸めた。それからくちびるを舐めて、かがみこんで、
目の前を見えなくした。否、目の前をラスティでいっぱいにした。キスされる寸前に目を閉じた。ちょっと惜しいかなととも思ったが、それがマナーらしいし。
でも顔見たい、けどこの距離ならどうせ見えないか、と思いながら塩味とオレンジ味の入り混じったキスをした。もしかしなくてもここはオープンスペースなので、
こういった、ごくごくプライヴェートな愛情表現は慎むべきなんはないだろうかと気付いたときには、ラスティが唇を引っ張りながら離れていったときだった。
ちょっと呆けているようだった。まあそれも、無理はないかと思う。なにしろすごい有為転変だったし。
と、いうことにすることにした、少しばかり自分を甘やかそうと思った。たまには。
「ありがとう」
もう一度言った。ラスティをこんなにしっかり見ていられるのなんて、何年ぶりだろう？
「キスして礼を言われたのは初めてだ」
さんさんと照っている、現役の太陽のようにラスティは笑った。
ちょっと隣に来ない？と誘うと、この広い浜辺できゅうきゅうにひっついて座った。満員電車の、イス席じゃあるまいし。
「父に引き合わせてくれてありがとう……これで気が済んだよ」
もしも会ったらどうしよう？とは、幼い頃から何度も考えていた。きっととりあえず一発は張り倒さないと、母さんの分を入れたらもっとかもしれないと。
でも結局は、何もしなかった。顔を良く見て、抱きしめあって、ちょっとうるっとして、そして「元気で」と握手して分かれた、それだけだった。
電話番号や住所の交換もしなかった、次の約束もしなかった、もしかしたらもう会うこともないのかもしれなかった。でも会えた。
たった一度だけかもしれないけれど。向こうはこっちを知っている風だったし、記憶にないほどの昔には会っているのかもしれなかったけど、
こっちが覚えていないんだからノーカウントだろう。
あの父が、若き母と出会って、好きあってわたしが生まれて、そして別れて。そう思うと、親のロマンスのことについて考えるとどうもよく分からなくて。
母の墓にあった、ラスティ以外の謎の花束のこととか。聞きたいことはいろいろあったはずなのに、実際会ったら何も聞かなかった。
どうして泥棒をやっていたのかとか、母と何があったのかとか、今どうしているのかとか。海に浮かんだあぶくのように、一瞬浮かんで消えた『父親』という存在。
生まれてこのかたずっといなかった父親がいまさら現れても、どうにもならなかった。
遺伝子提供者の片割れ、それだけだった。
「どういたしまして」
ラスティが、頭をぽんぽんと叩いてくれた。背中も。
それはとても気持ち良かった。
「ラスティ……」
「うん？」
「仕度をするんじゃなかったのか？」
「しているだろう？きれいにしている」
「これで？」
父のいた海辺からはまた飛行機で移動した。……一生分の飛行機に乗ってしまったような気がした。もうヨーロッパには戻れない、船旅ででもないと。
あのお仲間と、ラスベガスで約束をしているそうなので、そちらに取ったホテルにまずはチェックインした。確かに、シャワーでも浴びて
手足を伸ばしたかった。そしたらなんとラスティが。
「俺が洗ってやるよ、エリック」
「は？」
「水道代のお詫びに」
とかなんとか、ウィンクなんかしながら言い出した。そろりそろりとあとずさっても、元に限りのあるホテルの一室なので、あっという間に
背に壁が当たった。ごく普通のツインは狭い。何しろラズベガスだから。広い部屋はもれなくお高いのだ。
「そりゃあもうすみずみまでしっかりと洗ってやるよ、任せとけ」
あまり、任せたくない感じだった。第一その、わきわきとした手は何を表現しているんだろうか？なんだかオールドムービーの、
襲われる令嬢のような気分を満喫できるんだが。
「ラスティ……ホテルの風呂だぞ？」
「うん？」
あっという間に追いつめられて、壁に手を置いたラスティに囲い込まれてしまった。しかもラスティは顔を寄せて、
頬といわず髪といわずキスをしまくった。このやろ、いがぐり頭を撫ぜるぞ！
「男２人じゃ絶対狭いぞ」
「大丈夫、エリックとだから」
だから、その根拠はなんなんだ！
「触りたいし、エリックの身体を見たい。……駄目か？」
「ずるい……」
正面からそんなことを言うなんて。
「エリック？」
そんな目で見るなんて。
「まったくもう……」
ラスティは、ずるい。
それで結局、一緒に入ってしまうんだからわたしもたいがい甘い。
ラスティは大喜びだった。重ねたスプーンのように入っていてもホテルのバスタブは狭かった。
足なんて伸ばせやしない。しかも居心地も、いいんだか悪いんだが。泡だらけにして洗われて、シャワーで流してもらって、
それからお湯を張ってこうしてつかっているわけだが。湯気は心地良いんだが。
「ラスティ……やっぱり落ち着かない」
「そうか？」
そう言ったら、肩に顎をのせられた。濡れた顎の感触はなんとも言えず、自分の髪の張りつきとあいまって、変な気分だった。
なんと言っても、すぐうしろに張りつくようにされているし、片手は腰に回されてもういっぽうの手であちこち撫で回されているし、
キスはしょっちゅう後ろからされているし。キスも、これまでの人生分はもうされているような気がした。
除く母親。
「よく考えてみたら、わたしはされてるばかりじゃないか」
「ああ、それはすまない」
「そう言いながら首にキスすると、本当にすまなく思っているかを疑われるぞ？」
「疑ってるのか？」
「疑われたいか？」
「いや」
「じゃあ信じてやるから、わたしにも触らせろ。それに」
「それに？」
「こうしていつまでも風呂に入っているとふやける」
ラスティは、弾かれたように笑った。
「確かにそうだ。名残惜しいが上がるか」
言うが早いかざぶんと立ち上がったラスティは、久しぶりに顔を見せてくちびるのキスをした。
「つづきはベッドでしよう」
……『ベッド』という単語に、こんないかがわしげな意義があるとは、思ってもみなかった。きっと真っ赤になっている。顔といわず、身体といわず。
「エリック？のぼせたのか？」
「ちょっと……」
「抱いていってやろうか？花嫁さんみたいに」
「お願いだからやめて……」
「はいはい。分かったから出ような、バスローブ取ってくれ、エリック」
どうにか伸ばせた手で取ったバスローブをラスティに手渡した。見たいし触りたいのは確かなんだが、いざ見えるとなると怖気づいてしまうのは何故だろう？
わたしはこんなに意気地なしだったのか？見たってきっと石になるわけでも塩の柱になるわけでもあるまいに。
ドキドキして、見られないなんてそんな、１０代の子供でもあるまいに。
「エリック？」
何も言えなくて、ただラスティを見上げた。ラスティはどこかがかゆいとかくしゃみが出そうなのを我慢しているときのような顔をして、もう一度キスしてくれた。
バスルームのライトが逆光になって、それからの表情はよく分からなかったけれど。
「よくこうしたよな」
ベッドにお持ち帰り同然に運ばれて、寝かしつけられ身体を拭われて、なんだか本当にのぼせてしまったみたいだった。頭がぐるぐるした。
「え？」
「こう……」
そう言ってラスティは、暑いので羽織っているだけになっていたバスローブからはみ出した肩口にそっとキスをした。
「ああ……」
確かにラスティはよくしていた。キスも、ふざけたふりをして（と、睨んでいる）あるいはこっちが寝ている（と、思っていたんだろう）ときに。
キッチンに立っているときも、よく後ろから抱きしめてきた。その行為は、小さい子が母親にしているのと同じに見える……風を装っていたんだと睨んでいたんだが。
「やっぱり気付いてた？」
「人の気配がすればな」
うつぶせていたので、顔を横にして笑ってみせた。
「これもした」
そう言って今度は、後ろから抱きしめた。髪に顔をうずめて。濡れてるぞ、窒息するなよ。
「ああ、したな」
「全部下心があってのことだったんだけど、それもバレてた？」
ラスティはくすくす笑いながら言った。
「……そうじゃないかな、とは思ってた」
正確には違う、そうだったらいいな、と思っていたのだ。
「やっぱりバレてたか」
「おいこら、カジノに行くんだろう？そろそろ仕度しなくていいのか？」
「もうちょっとこうさせて……」
ラスティの重みというのは、いろんなことを想像させた。身体の、肉のつき具合や筋肉の動きもみんな分かってしまう。なにしろこんなに密着していれば。
考えてもしようがないことだけど、これを知っている人がたくさんいるんだろうなぁ、ってことなんかも。あ、いかん。
「エリック？」
「うん？」
なるべく声は変わらないで出せるよう努力した。でもラスティには分かってしまったようだった。
「エリック？重かったか？」
そうじゃなくて、のつもりで頭を振った。ただし顔は下を向いたままで。ラスティはわたしの上から降りて、隣に寝そべって上体を起こした。
「それじゃあどうして泣いてるんだ？」
真っ向から聞いてくるラスティ、君は捜査官には向いていないね。捜査に当たるんなら、そんな直球勝負はすべきじゃない。
「目にゴミが……」
一応お約束のジョークを飛ばしてみる。
「ハイハイハイ。で、何のゴミで泣いてるの？」
飛ばなかったようだ。ラスティに顔を暴かれて目尻を舐められ涙を吸い取られた。こんな、映画かドラマか小説みたいなの、はじめて見た。そう言ったら。
「ハジメテ体験おめでとう、エリック」
またキスされた。
「じゃあ映画みたいに、ずっとキスしてよっか？」
「……やめてくださいお願いします」
心臓がもたないと思うから。
「そっか？」
「ええもう是非……」
「じゃあなんで泣いてたのか教えてくれ」
それがしかし。
「……なんとなく……」
としか言いようがない。明確に「これ！」と言えるものがないのだ。
「シアワセスギテコワイノ！とかならいいんだけどな」
そう言ってラスティは、また手を回してきた。今度はダイレクトにそのあたりに。
「ラ、ラスティ？」
今度こそ、声が裏返った。
「うん？」
「何をなさるので……？」
「手淫」
あなたそんなはっきりと……。
「ここもずっと触りたかった。触ったら、どんな手触りなんだろう、エリックは、自分でのときと違った顔をするんだろうか？とかずっと考えてた」
「考えるな」
「俺のも触って。嫌じゃなければ」
「嫌じゃ……」
反射的に言ってしまって口を押さえる。でももうラスティは笑っていた。しっかり聞いてしまったようだった。
「エリック」
なんでしょうか、ラスティさん。顔がまた、真っ赤になっているだろうことが分かった。
ラスティの顔が見られない気分でいたら、やけに真剣な声を出すのでついそちらを向いた。本当に真剣な顔をしたラスティがいた。それはもう、怖いくらいに。
「ずっと一緒にいてくれ、エリック。いろいろ不本意だろうけど」
「はぁ……」
不本意と言うと？ユーロポールを無断退職したこととかかな？
「結婚してくれでもいいんだが……してくれるか？」
「どこで？」
アメリカは、ところによってはＯＫだそうだが、ラスベガスは出来たっけ？そう思って首をひねっていたら、首に思い切りしがみつかれていた。
「エリック……」
「はい」
「愛してる……」
もしかしなくても、こんなに必死そうなラスティを見るのは初めてかもしれなかった。
いつも余裕綽々な感じで笑っているか、いたずらが見つかってしまった子供のような男なのに。人生これゲームみたいに渡り歩いているイメージがあるのに。
「ラスティ」
ぎゅうぎゅうにしがみつかれているので、顔が見えなかった。仕方がないので本当に頭を撫でた。
やっぱり、手触りが面白かった。刺さりそうなので、抱きしめるときはちょっと気をつけたけれど。
どちらも裸で、ベッドの上で、すがりつくみたいに抱きしめあって何してるんだろうなぁ、と思うとおかしくなった。その気配が伝わったらしかった。
「エリック？」
「うん？……ああやっぱりこの頭の手触り面白い……」
言ってくださいお願いします、とラスティが、とても小さな声で言った。今だけでもいいから、もう２度とねだらないからと言うから、
どんなすごいことを望まれているんだろうと思ったら。
「――――俺のこと好き？」
ときたもんだ。
「あれ？」
そういえば、言っていなかったか？あれだけくっつきあってイロイロして、こんなこともちょっとして、そういえばあんなところを触られもした、
それ以前なこともたくさんあったが。
「言って……」
「ない」
「そうだっけ？」
しっかりとうなずかれた。確かに、記憶を掘り起こしてみても、言ったという事実は出てこなかった。
「そっか……」
それでこんなにむしゃぶりついているわけか。すがりついているわけか。
ラスティは、憎らしいほど余裕綽々で――――でもとてもかわいらしいところがあるのだった。
「ラスティ」
呼ぶと、ウサギが耳を立てるようにていがぐり頭をふるわせた。
「そっかぁ言ってなかったかぁ……」
こくこくうなずかれた。かわいいなぁ。ひよこみたいで、ぽわぽわしてて。
「あのな」
その耳に、赤くなっている耳に顔を近づけた。
「よく聞いてくれよ、ラスティ……」
その耳に、吹き込んだ。とても、大事な一言を。
かわいさを張り合っているような？
カジノ前と後を一緒にしちゃおうかと思ったんだけど
長くなったので分けました。
今後ラスティはきっと、仕事をするときには
小脇にエリックを抱えてするに違いない。
べったりです。
しょうもありませんね（笑）。