『好きだ』という言葉ひとつをとれば、たいしたことはなさそうに思えた。
「この花が好き」とか「この映画が好き」とか、日常でよく使う言葉だからだった。
でも、それを人に使うとなると話は違う。それはそのまま『愛してる』の意味になる。だから今、エリックは深く静かに懊悩していた。一言で言って「ああ、言っちゃったよ……とほほ」という気分だった。
流されたような気がしないでもなかったが、流れにさらされて現れ出でた気持ちは、まぎれもない自分の気持ちで、だったらそれが意に染まないからと言って捨て置くわけにはいかなかった。不法投棄になってしまう。河からすくって自分で管理しなくては。
放っておいたら、どんな怪物に育ってしまうか、しれたものではなかった。
しかしそのとほほ源は、そんなエリックのさめざめと泣きたいような気持ちでいるとは気づかずに、己の欲するところへ向ってどしどしと進んでいった。
「……ブラッド、さん？」
「うん？」
座っている場所がベッドかどうかなんてことは、あまり関係ないだろう。よその目がない、２人きりの場所であるということがブラッドにとっては千載一遇なのだろうから。ひどいほどに追い詰めて、ようやく望んだ答えを得られて、それで「ああ良かった」で終われたら、誰も苦労はしないわけで。「何やって……るの、かな？」
「なにと言われましても」
ブラッドは、後ろからゆるく抱きしめたエリックのシャツの裾から手を入れて素肌の感触を楽しんだり、もう片方の手でエリックの首を撫でながら髪に肌に、触れるだけのキスをくりかえしていた。耳の下をあまがみされて、エリックは困ってしまった。ブラッドのすることがダイレクトに一箇所に血を集めてきてしまう。
なんということのないふれあいだけでも、相手とその意図によっては、まったく違うものになってしまうものなのだから。
「やめろ……離してくれ、ブラッド……」
ゆるやかながら遠慮のないブラッドの手をぺしぺし叩きながらエリックは制止した。なんとかブラッドの腕の中から抜け出そうとするのだが、あいにくその点で相手と意見が一致しないらしく、なかなか上手くいかなかった。たこに襲われているみたいだ、と昔見たパニック映画を思い出しながらエリックはブラッドの手の甲をつねった。
「どうして？離したくないんだけど」
「わたしは離れたいんだが……」
手だけでは足りないので、頭を前後にふって、ごんごんとブラッドのでこにアタックをかけた、らブラッドは頭を低くして逃げた。
「ちょっと待て、いやずっと待て、だから何をするんだ、おいこら止めろったら！」
バシ、とついに本気に近い力を出してブラッドの手を叩くと、やっとブラッドの手が止まった。「………いてて」
「痛いように叩いたんだから当たり前だ！」
そのすきに、エリックは身体をひねってブラッドと向き合った。ブラッドの腕の中からはまだ、逃げられていなかったが。
「もうちょっと離れろ！なんだっていつまでもこんなにひっついていないといけないんだ」
「そりゃそうしたいから」
「わたしはしたくないんだ」
ちらっと、エリックは窓際のソファセットに目を走らせた。そもそもそういう場所にいるべきだったのだ。
ブラッドを見送りに行ったはずの空港から、当の本人にさらうように連れて来られていくら呆然としていたからって、つい自分の部屋のような気持ちでうっかりとベッドになんて座るべきではなかったのだ……！とエリックは盛大に臍をかんだ。
「したくならいのか？」
不思議そうに聞かれると、こっちのほうが何かおかしいんじゃないかと思ってしまう。相手が、あまりに当たり前のことのように言っていると。
「……ならない」
憮然としてエリックは言った。本当に、ふくれっつらの子供のように。
「俺と、したくないのか？」「そういう聞きかたは卑怯だ、ブラッド……」
まだ日もこんなに高いのに何考えているんだ？と言うのは簡単だったが、それではいつまでたっても平行線をたどるばかりだった。でも、聞いたら聞いたでくらくらするばかりだろう。なお悪いことには、１００パーセントあきれ返っただけのくらくらではないということで。
「俺はアルコールと一緒か？」
きょとんとしていたブラッドは、不満そうというよりも拒まれて悲しそうな顔を一瞬した。それから、撮影中何度も見た『ブラッド・ピット』の顔をして笑った。その笑顔が、エリックはとても好きだった。悪くて自信に満ちていて、世の中の、どんな困難にも立ち向かうようなその笑顔が。
「なんだそれは？」
「アルコール依存症みたいじゃないか。好きなのに好きじゃないなんて」
「……な、んだそれは……」
まさに現在の心境を言い当てられて、エリックはうろたえた。うろたえるということが、それが事実であることを雄弁に物語ってしまうということに、気づけないくらいには驚いていた。
そのすきをついたわけでもないだろうが、ブラッドはエリックを正面から抱きしめた。
その抱擁には、あまりセクシャルな匂いは感じられなかったので、エリックも安心して抱きしめられていた。どうしてこんな風にしていられないんだろうと、ブラッドの背中をさすりながら。どうして、こんなふうに。「だいたい君は強引すぎるよ、ブラッド」
いきなり連れて来てこれかい？とエリックが言うと、ブラッドは。
「それについては面目ない。なにしろあせってたもんだから」
悪びれて、いるんんだかいないんだか、にわかには判断がつきかねるようなブラッドの言い草だった。でも、ブラッドなりに困っているのは確かなようだったので、エリックも許した。背中をぽかぽかやったりはしたが。
「あんたは明日には帰るっていうし、撮影は終わっちゃうし、しかもオーストラリアとアメリカだし」
「なんだい、それは」
「離ればなれになってそのまま、昔共演した人にだけはしたくなかｔったんだって言ったかな？」
「そうしようと思ってたよ」
ブラッドの心配大当たり、とエリックは言った。どうにもならない困ったことにぶつかると、人はつい笑ってしまうのだという見本のような、やわらかい笑みを浮かべて。ブラッドはそれを見て、満足した、猫科の動物のような、とろけそうに幸せそうな顔をした。
「だから、その前にエリックを捕まえなきゃいけないと思ったんだ」
「それでここまで連れてきたのか？昨夜のうちにするとか、方法はいくらでもあるだろうに」
「それじゃエリックは逃げるだろう？」
なるほど、とエリックは思った。確かにブラッドはもう行ってしまうのだと、お別れなのだと思いつめていた。でなければ、あそこまで自分の気持ちに正直になることは出来なかったかも……いや絶対になかったことだろう。エリックだって伊達や酔狂で長年自分という、たいそうつきあいづらい奴と向き合ってはいなかった。それなりには『自分』のことは分かっている。１番ではないものの。「ブラッド、きみはどうしたいんだい？」
別れたくないと言った、つきあいつづけたいと、でもそれは通常フリーな人間の言うことだった。少なくとも、双方結婚していて――――しかもエリックには子供もいる――――妻とは別れて君と！というのでもなければ、エリックの倫理観としては、とてものこと、ブラッドとのことに溺れることなど、出来そうもなかった。理性で考えれば。
「俺？どうしたいかはもう言っただろう？あんたと別れたくないし、ずっとこうしていたい」
そして、理性理論で考えたとおりのことが出来れば、苦労はないわけで。
「少なくとも姦通小説の名作は生まれないな……」
「うん？」
何か言ったか？とブラッドは、顔を上げてエリックを見た。
「それは無理だよ、ブラッド。ずっとこうしているのは無理だ」
「無理か？」
エリックはうなずいた。そしたら。
「ブラッード！」
「お静かに。隣近所に聞こえるぞ」
なんだか股間がもぞもぞしていると思ったら、ブラッドはあきらめてはいなかったのだった。エリックの話は話として聞いていながらも、エリックとすることをあきらめる気はさらさらなかったのだった。エリックとしては、とても真面目な話をしているつもりだったのに、なんとブラッドは、エリックのズボンのファスナーを下ろしていたのだ。しかも布越しにズボンの中身にも手を出してきていた。「ブラッド……」
「なんだ？」
かなりとんでもない場所での双方手での攻防がくりひろげられた。
なんだってこんな体勢で話をしなくちゃならないんだ？とエリックはとても切ない気持ちになった。
「嫌だというのに……！」
「エリック、俺はまだ枯れたじじいでも行いすました僧侶でもなんでもないんだ」
「だから？」
「だから、好きな奴としたいんだ」
それのどこが悪いんだ？と言われれば。
「悪いとこだらけだろう……」
話は永遠に平行線なんだろうか？とエリックは頭痛を覚えた。
「別れるのがそんなにつらいのか？おいそれと会えなくなるのがそんなに？」
なるべく考えまいとしていたことをつきつけられた。サヨナラなのは分かっていたのに、だから考えないようにしてたのに、好きだの愛してるの言って言われてちょっとぽーっとなってそれどころじゃないと気を引きしめて、ぐるりとまわってにゃんこの目のように、話も覚悟も胸の痛みも、また戻ってきてしまった。最初から、どこに行ってなどいなかったように。「エリック」
「………」
「エリック」
エリックが黙ったままうつむいていると、ブラッドが――――手はそのままにして――――エリックの額に自分の額をあてた。
「約束は出来ない。何もだ。世の中の恋人同士のような他愛のない約束は何も出来ない」
知ってるから、もう何も言わないで欲しかった。こんなところにつれてこないで欲しかった。
あの空港で、友達のように別れてそれっきりにして欲しかった。
それなら、共演していたときだけの、ちょっとした出来事としてしまいこむことが出来たのに。出来なくても、無理矢理そう思い込むことなら出来たかもしれないのに。
「エリック、俺を見ろ」
目を伏せていることを許さずに、ブラッドは命令した。
エリックはおずおずと視線を上げてこわいようなブラッドの真剣な顔を見た。今から食われるか殺されるかというようなこんなときでも、なんて格好よくて、なんて愛しいんだろうと思いながら。泣けてきそうだった。
「この先どうなるかなんて神サマでもないと分からないんだ。だから今しないと破裂しそうなことを俺はする。あんたを抱くことだ」「そんな……無茶苦茶な……」
「嫌なら抵抗しろ。ねじ伏せるから」
「……すごい自信……」
「だろう？」
「だいたい、初めて会ったときからブラッドは……」
「そうだったろう？初めてあったその日に、あんたを押し倒しかけるような奴だったろう？でもそれは、言っておくがあんたが相手だからだぞ。エリックのことを好きになったからだ」
いつでもどこでもそんなことしているわけじゃないんだぞ、とブラッドはウィンクしながら言った。
浮気したら殺す、と言う資格もないのだ自分には。それがこんなにくやしいだなんて。
最低だとエリックは思った。確かに最低だけれども。
「わたし以外にそんなことしでかしたら殺す……」
言わずにはいられなかった。
「肝に銘じます」
エリックが目を閉じるのが先だったか、ブラッドが顔を近づけるのが先だったか。
それは誰にも分からなかった。
「………っ！」
次の朝、エリックはからみつくブラッドの腕にはめられた時計を見た瞬間に青ざめた。
「飛行機の時間……！！」
「うーん？」
エリックを抱き込むようにして寝こけていたブラッドも、その動きにつられて目を覚ましたようだった。
結局寝たのは夜明け近く、それだってカーテン越しに空が明るくなっていくのが分かったからだった。
今から寝ても起きられるか心配だったのでいっそ起きていようかとあれこれしゃべりつづけたものの、やはり睡魔には勝てずいつの間にか眠ってしまったようだった。だから当然モーニングコールも目覚ましもなし。寝足りるまで寝てしまった先に待っているのは、見るものの事情など斟酌しない無常なただいまの時間だけだった。
「仕度……ああ、１度ホテルの部屋に戻らないとパスポートもない！！」
エリックが頭を抱えていた。しかもシャワーくらいは浴びなくては、昨夜そのまま寝てしまったのだから。
いくらなんでも情事のあとの、そのままの格好で表なんか歩けやしない。わたしは昨日しました、と看板を掲げて歩くようなものなのだから。だいいち、誰に気づかれなくても自分自身に居たたまれない。
「エリックも飛行機遅らせろよ……」
「そうはいくか！帰りの便を言ってあるんだぞっ！」
素っ裸でバスルームに駆け込むエリックなんてものを見るのは初めてだなぁ、と目覚めに眼福な後姿を眺めながら、ブラッドは身を起こしてタバコを咥えた。一服すると、やっと頭がめぐり始めた。これでコーヒーのいっぱいもあれば完璧だった。「えーと、ルームサービスメニューは、と」
とりあえず、コーヒー。それを飲むまでは出ないぞこんちくしょう、とかなんとか、誰にともなく毒づいて。
「あれでちゃんとシャワー浴びてるのかね」
シャワーを使っているにしては面妖な、バシャバシャいう音を聞きながらブラッドはにやりと笑った。
「さーて、なに頼もうかな」
ついでに何か腹にも入れよう、昨夜は体力の限界までいくような激しい問答を繰り広げてしまったもんだから、頭の使いすぎで腹が減っているのだった。
「朝食メニューは……ギリギリ間に合うか」
身につけているのは腕時計とネックレスだけ。その腕時計を眺めてブラッドは言った。さて、いつエリックに言ったものか？
「卵はやっぱりスクランブルかな。エリックは目玉焼きが好きなんだったっけか？」
メニューをあれこれ検討するのは、ものを食べるに当たっての最大の楽しみだ。
「よし、これにしよう！」
決めるとブラッドは内線電話の受話器を取った。
「ハロウ？」
頼んでおいて、エリックを驚かせてやろう。
「ああ、ルームサービスの朝食セットを……ああ、卵は……」
さてどんな顔をするかな？
「腹ぺこなんだ。なるべく早く頼むよ」
電話を切って、ブラッドはニヤリと笑った。そして時計にキスをした。
一足先によその土地の時間を刻んでいる時計に、祝福のキスを。
ハイ、ラストリク！
４４４４４４HIT記念リクその４にございます。
『トロイの撮影が終わって帰るブラッドを見送りに空港に行ったはずが
当のブラッドにラチられて、おつきあいの継続を迫られた挙句
「俺のこと好きだろう？」などと言われた不憫なエリックさんの話』
の後日談＋ハッピーエンド方向＋当日談にゴザイマス。
tomo・Ｈさんリクエストありがとうございました！
当日は当日でも、その当日のすったもんだが長いところが
私らしいと言うかエリックらしいと言うか（汗）。
どーにも素直に「スキだ！」「アタシもよ！」とはなってくれませなんんだ……。
こんなんでも、ちょこっとでも楽しんでいただけると
すごーくすごーく良いのですが……（脂汗）。
ダ、ダブル不倫は難しいッスね！（涙）