泳がないか、エリック？と電話が入ったのは明日はジャパンプレミアという日のことだった。
「今から？まだプールやってるのかい、ブラッド？」
大きなホテルだから、プールのひとつくらいあるかもしれなかったが、こんな夜の夜中になってもやっているもんなんだろうか？という疑問が素直に口をついた。
『やってるそうだ』
がさごそいう音が聞こえているのはきっと、サービスメニューをめくっている音なんだろう。
「まさか２４時間やってるのかい？」
ニホンジンは働き者だとは聞いていたけど、店なんかもずいぶん朝早くから夜遅くまで開いていてびっくりしたものだけど。いくらホテルでもそこまでやるもんなんだろうか、と思って。
『いや？えーと……２時までだそうだ』
「……そんな時間までやってるのか……」
『どこで落ち合う？』
行くと、ＯＫすると信じているようだった。これでもし行かない、と言ったらどんな顔をするだろう？想像だけでやめておいたけれど。
「エレベーターホールはどうかな？ところで水着はどうするんだ？水着なんて持ってきてないぞ？」
『用意があるから大丈夫だ』
その答えに、ちょっと不安を感じてしまうのは何故だろうか？
「よく水着を用意してあるな。持ってきたのか？」
深夜でも、エレベーターホールみたいな共有スペースには人がいてもおかしくはなかったが、幸いなことに今はいなかった。
何しろ商売が映画俳優なものだから、顔だけはそれなりに売れている。しかも外国人ということで多少は目立つだろうし、ブラッドはもっと顔を知られている。
「まさか。買ったのさ」
当たり前のようにそう返されてしまった。このお金持ちさんめ。
「もったいないおばけが出るぞ」
「この後も着れば出まい」
そんなことを言ってさわやかに笑わないで欲しい。
「いくら水着だからって、旅行にいちいちそんなものまで持ってきてられるか」
少年のようにブラッドは笑った。特に変装めいたことはしていない。大き目のＴシャツにだぼだぼジーンズにぴったりきた帽子。
ジーンズのＣＭに出てきた時の格好に似ているだろうか？「ホテルにプールがあるって聞いていたから、泳げたらいいな、とは思ってたけどな」
「だからって買うとはな。そんなに泳ぎたかったのか？」
「今日急にね」
そうこう言っているうちにエレベーターが来て、プールのある階まで我々を運んでいった。エレベーターでも誰にも行き会わなかった。プールまでの廊下でも。
さすがに、そろそろ日付が変わろうかという時間では、遅くまでやっているのがうりのプールも人気がなかった。
それでもまったくいないわけではないところがさすがというか。純粋に泳ぐためだけに来ている連れのないものばかりとみえて、みんな魚を目指しているように泳ぎを楽しんでいた。
「こっちだ」
ブラッドに引っ張られていくとガラスのドアがあった。その先には、もうひとつプール。屋外プールが。「やった！こっちは貸切りだぞ」
子供のようにはしゃいだ声を出して、ブラッドは伸びをした。
「それはいいんだが……」
「うん？」
「どうしてビキニなんだ？」
そう、ブラッドが用意した水着とやらは、自分はちゃっかりトランクスタイプだったくせに、こっちのだけはビキニタイプなのだった。しかも黒の。
「話せば長いことながら……」
「端折れ」
「似合うと思ったから」
端折りすぎだよ、ブラッドさん……まあギャラリーが少ないので良しとしよう。
「泳ごうぜ」
屋外プールは屋内のものよりも小さく作られていた。こじんまりしたプールの脇にはぽつんとスタンドがあった。そしていくつかのテーブルとイス、デッキチェアも。ブラッドにつられるようにプールに入って、準備体操もしなかったことに気付いたのは、ひとしきり泳いでからだった。水に入るときはいつもそうだった。わくわくするのに、水に入りたくてうずうずするのに忙しくて、とてもそんなことにまで頭は回らなかった。そんな様子は、なにかに似ている。
「ブラッド？」
そんなふうにそれぞれに泳ぎを楽しんでふと見渡すとブラッドの姿が見えなかった。スタンドには、なにかをしているらしいホテルマンの姿があった。ところどころライトアップされているとはいえ、圧倒的な夜が視界を悪くしていた。どこで泳いでいるんだろうと辺りを見回していると。
いきなり海坊主のように現れたブラッドに、頭を押さえ込まれて、水の中に沈めれられた。
冗談だと分かっていてもちょっと怖かった。
ブラッドがいたずら以上の目的でこんなことをするわけがないのは、理性では分かっていても感情は、ただ不安で。
ブラッドが水の中で笑ってこっちを見ていようと、腕を伸ばしてきつく強く抱きしめようと、頭を引き寄せて息の泡粒を吐き出しながらくちびるをあわせてこようとも。不安で。
「信じられないことするな……」
「ちょっと憧れだったんだ。水の中のキス」
「ドラマの見すぎだよ、ブラッド……」
キスの長さにあてられてちょっとぐったりしてしまったので、デッキチェアに寝そべっていた。考え出すと気恥ずかしくなるので、セミヌードどころかほぼヌードを晒していることは考えないようにしていた。
「まあまあまあ。これでも飲め、エリック」
そう言ってブラッドはグラスを差し出した。ありがたくそれを受け取って一口飲んだ。きれいな緑色の液体は甘かった。
「これも食うか？」
手にしていたアイスクリームを振ってそう言った。
「それはいい」
「そうか？それじゃ……」「冷たっ！」
なんでこう、次から次へと突拍子もないことを。
「何するんだ！」
「そりゃあもう」
ブラッドはわざとこぼしたアイスクリーム目掛けて顔を下ろしてきた。……そういうつもりか。
「……こうするつもりさ」
腹を舐められても、何も言うものかと歯を食いしばった。どれだけ我慢できるか、勝負でもしているように。
「………っ」
臍の周りから始まって、それはもうあちこちと。
スタンドからは都合よく死角に、開いたままのパラソルがあった。
「――――っ！」
こともあろうにこんな場所で、水着の上に、手を置いて握りしめて――――。「こらっ」
頭をはると、ようやく侵入者の舌と手は止まった。いたずらな目で、こちらを伺いながらも、とりあえず。
「場所を移そうか？」
どこに？いまさらどこに居場所があるというんだろうか？もうあのトレーラーハウスはないというのに。
「部屋を取ってあるんだ。用意されたのとは別に」
「用意のいい……」
「照れるな」
「誉めてるわけじゃない」
人気がないことに、死角であることに気を良くして、ブラッドはいまやすっかり乗り上げていた。
「どうする？」
「……行く」
どういうわけだか。何を考えているのか。
自分の心が、１番、分からなかった。史上最大のミステリー、だ。
次の日、ブラッドは腹をこわした。
「アイスクリームの食べすぎだぞ」
ホテルからもらった薬を差し出しながらそう言った。
「……そうかな？」
「当たり前だ。何ガロン食べた？」
「バニラだろ？チョコレ−トだろ？チーズだろ？」
「もういい。早く薬を飲め。今日は記者会見があるんだぞ」
「……にが」
「よく効くそうだ……下痢に」
「…………アイスクリームのせいかな？」
「当然だろうこのアイスクリームジャンキー」
「エリックのせいえ……」
「ぶつぞ」「そういうことはげんこをくれる前に言ってくれ……こっちは病人なんだぞ」
「自業自得だ、寝てろ！」
「うーん腹がしぶいぃ……」
「うるさいぞこの病人」
だいたいそれが原因というならこっちの方だろう。
「あんたの方が食ってたのにな……」
「鍛え方が違うさ」
「何の？胃腸の？」
言いながらケットに顔のほとんどを隠したブラッドに、ちょいちょいと手招きされた。
その考えは見え透いている。見え透いてるのに。
これもミステリー。『史上最大』は、毎日塗り替えられる。今度のキスもずいぶん長いものになった。どちらもなかなか離れようとしないからだった。
時間設定の決まっているときの寸暇はいつもこう。
息の続く限りの水の中と違って、陸の上ではいつまででも続けることが出来た。
背骨の先まで伸びようとしていた無遠慮な手を叩き、ブラッドが、トイレに駆け込むそのときまで。
あんな奴の、どこがいいのかね？と頬杖をついてバスルームに駆け込むブラッドを見送った。
『史上最大』のミステリーは、まだ、続いている。
オールリクエストその４『ブラ襟でらぶらぶ、切な風味』でございました〜。
果たしてお題の『らぶらぶ』はクリア出来ているでしょうか？
いつもなら気を抜くとすぐらぶらぶ♪になるというのに
それで苦労することもあるというのに、お題をいただいているときに限ってこれだよ……（涙）。
お題を聞いて、「ブラ襟？ならジャパンプレミアの話とか？ホテルのプールで泳ぐのよ、
それでアイスクリーム食べるのね、きっとそれで腹を壊したんだわ……
キシシシシシッ！」と、どうして思ったのか？
思いつきのメカニズムもミステリーだ（笑）。