「……エリック」
ラスティがゆらり、と立ち上がったのが分かった。
背を向けていても全神経を彼に向けていたから、すぐに分かった。
鏡に映りこまなくたって、きっと分かっただろう。
気がついたらラスティはすぐ後ろにいて、逃げ道はふさがれていた。ラスティの両手はわたしごと洗面台についていて、わたしはラスティの腕の中に捉えられていた。
捜査官が、泥棒に捕まるなんて、シャレにもなんにもなりはしなかった。振り返ろうにもギチギチに拘束されていて
――――間違っても抱きしめられていると勘違いしてはいけないと、これはただの暴力なんだと思おうとした。間違っても決して、
抱きしめられているだなんて、思ってはいけないと。でも、ラスティの行動は違っていた。
「ラ、ラスティ？」
どういうつもりだ？と言うつもりの言葉がかすれてしまったのは不覚だった。これだと動揺しているのがまるわかりじゃないか！
「エリック……」
ラスティはこともあろうに、首に息を吹きかけてきた。あまつさえ唇を寄せて――――囁かれた。
「エリック……嬉しいよ」
「は？」
相当間の抜けた声が出てしまった。振り返ろうにも振り返れないので、見えるラスティの姿は鏡越しだった。
髪は短いのにラスティは顔を伏せていたので、よくは見えなかったがどうやらかなり酩酊でもしているような表情をしていた。
そんな匂いはしなかったが、酔ってるのか？それともまさかクスリでもやっているんじゃないか、とヤバい予想に、怖気どころか冷や汗が流れてきた。頭の中で、
一生懸命薬物中毒の治療がいいと言われている病院てどこだっけ？とりあえずイタリアでいいのか？それともアメリカのほうがいいのか？
しかしさすがにアメリカまでは知らないぞ、職場で聞けば知っているのがいるかもしれないけど、そうだ知り合いの医者に……というところまで話が高速回転した頃に、
ラスティは次の行動に移っていた。エリックの太股に触ってきたのだ。
もちろんとっくに、エリックの尻はラスティにぴったりくっつかれている。
それだけでもう立派な痴漢行為の現行犯だ。でも、男同士でも猥褻行為にあたるんだっけ？とエリックは
畑違いの犯罪の捕らえ方について考え。ている場合ではなかった。
「ララララスティ」
「なに、エリック」
ラスティの手はいつの間にかエリックの胸元をまさぐっていた。ああ、さっき、上着を脱がなければ良かったと、エリックが後悔しても後の祭りだった。
「ななななにしてるのかな？」
確かここはホテルの一室で、自分が取った部屋で、これから盗難届けのあった被害者に聴取に行く前に、荷物を置いて、と思ったらなんとラスティがいて、
今頃何しに来やがったこの野郎と思ったから、せいぜいぶすくれた対応をしていて――――それがどうしてこうなるんだ？
「エリックの誘いにのってる」
さ、そ、い？
誰が誰に何を？エリックの頭の中は『？』マークで埋め尽くされた。その間にも、ラスティはせっせとエリックに対する痴漢行為をつづけていた。大変熱心に。
「……誘われて何をしようとしているのかな、ラスティは？」
息を吹きかけるなキスするな！胸を撫でるな足に触るな腰押しつけるな――――！！エリックはそう叫びたい心境だった。
しかし窓が開いている。叫んだが最後、外には丸聞こえだろう。ホテルの中にだって聞こえるかもしれない。そして人が駆けつけて、
目にする光景がコレかと思うと、なけなしのプライドのためにもなんとしてもエリックは自分の手でコレを退けなくてはならなかった。
「何って……セックス」
ごきっ。
まったくの反射行動だった。ラスティのその言葉を聞いた途端、エリックの肘うちがラスティの腹に決まっていた。
「ぐっ……」
それでも膝はつかなかったし、手も離さないのは立派だった。ただしたやすくエリックが拘束をはずすことは出来たが。
向き直って、今度は膝うちをお見舞いしようとした動きは、さすがにラスティによってとめられた。エリックも職業柄と趣味柄さまざまな体術を収めているので、
結構な人間凶器なのだった。
「…………」
「………とわっ！」
エリックの膝を手でとめたラスティとのにらみ合いは、あっさりと終わった。
ラスティがしょうこりもなくエリックの膝頭を撫でることによって。
「何をする！この侵入者兼痴漢！！」
思わず出た蹴りを、これまたラスティに受け止められた。足首はつかまれて、ほお擦りされてしまった。
「ラースティ！」
さらにはそこにも舌を這わされて、あまつさえ股間をのぞかれるに至っては、触れられたわけでもなにをされたでもないのに、
その視線にものすごい羞恥を感じさせられてしまった。こんな目にあわされた挙句、なんだってこんなに恥ずかしい思いをしなくちゃならないんだ？
と思うと、エリックは泣けてきた。本当に目に涙もにじんできた。
「泣くなよ、エリック」
ラスティは、落ちるほどではないがエリックの目尻にたまったものを指で拭った。
「……それはいいからラスティ、足……」
「足？」
足を離してくれ、のつもりで言ったのに、ラスティは掴んだままのエリックの足にまたほお擦りをした。布越しにキスも。
片足で立っているのをのぞいても、相当に居たたまれない光景だった。生きていくって、時に切なかった。
「足を離してくれないか？」
なんだって不法侵入者兼痴漢プラス宿代諸経費踏み倒し野郎に、こんなに下手に出なくちゃならないんだ？
ますます情けなくなってきて、ますます泣けた。
「そんなに俺に会えたのが嬉しい？」
「…………」
ラスティにコトバが通じなくなっている。そう思うと呆然としてしまった。
相手は言葉が通じない、さらには片足持たれたまま。どうにか拘束して、まずはやっぱり救急車なんだろうか？とエリックは考えた。
「俺は……会いたかったよ、エリックに」
「……３年半もたってから急に？」
「３年半ずっと」
「ならなんで？」
「え？」
ラスティの手がゆるんだ瞬間をのがさずに、エリックは静かに足を下ろした。特別大サービスで、蹴りや手刀は入れないでやった。『ブシノナサケ』だった。
ブシじゃないけど。ただの警察官だけど。ただの――――恋するあほんだらだけど。
「なんで３年半も会おうとかいうアクション起こさなかったの？家賃も踏み倒して……」
いかん。
言い立てていたらまた泣けてきた。歳をとると、涙腺がもろくなるって本当なんだな、ということにした。ラスティのためではない。
久しぶりに会えて嬉しいとか、話がで来てそれでも楽しいとか、こんなに近くにいられるのがたまらないとかそういうことでは決してなくて！
「財布置いていっただろう？」
「あんなはした金……」
「あいたっ！確かにそうだけどね、エリック……」
「触るな痴漢！この泥棒！！」
「泥棒で詐欺師だけど、痴漢じゃないよ？」
「じゃあ今のこれはなんなんだよ」
「スキンシップ……おっと！」
「何がスキンシップ……足を絡めるな！腰抱くな！尻揉むな――――！！」
「何怒ってんの？だって誘ったのはエリックだろ？」
「だから……それがなんのことだか……」
ああもう、涙でぐしゃぐしゃだ！これから仕事で出かけるってのに、また顔を洗わないと、目が赤くなってしまっていないといいんだけど。
「わたしが…なにしたって……」
言うんだ？と聞く前に、キスされた。今度は頬に、そして涙を舐めとられた。
ああもうこりゃ、顔がガビガビになるなと思った。間違ってもラスティのくちびるや舌はあったかくて気持ちいいなんて、ぜったいに！思わなかった。
「泣かないでったら……そんなに気持ちいい？泣くほど？」
「よくない泣いてない……」
「じゃあこれ何？力水？」
だったらいいなぁ。
「おまえには関係ない……」
「あるよ、俺が原因だろう？」
「アレルギーだ。だから早く出て行ってくれ」
「アレルギー起こすほど、俺はエリックの中で満ちてた？」
「なにバカ言ってんだ……」
「バカじゃないよ、エリックに会いたかったんだ」
「嘘つき」
「嘘じゃないよ、会いたかった。すごく……会いたかった」
「だったらドアから来い、馬鹿者」
「留守だったから」
「留守だと忍び込むのか」
「どうしても会いたかったから」
どうせ携帯を取り戻しに来たくせにと思っても、頬に添えられたラスティの手の、乾いた感触は気持ちよかった。
「そしたらエリックが帰ってきて、上着脱いで顔洗って……なんだかあの頃みたいで」
なんだそりゃ、勝手にいなくなったくせに。
「俺がいるって分かってるのにそんな無防備なことをするからにはきっと」
無防備ってなんだ？ここはわたしが借りた部屋だ。きっとってなんだ、なんだってんだ？
「これはきっとエリックが誘ってるんだな、と……」
勝手な言い分をべらべら並べて、しまいにはラスティはわたしの頬から顎にかけて両手で包んだ。そのまま顔を寄せてきて――――。
りんごーんりんごーん。
街の鐘の音がわたしを正気に戻した。
「いかん時間が！！」
約束の時間に遅れてしまう！わたしは急いで上着とバッグひとつを引っつかんだ。もちろん部屋のカギも忘れずに。
「おいおいもう行っちゃうのか、エリック」
俺を置いて？とたわごとをほざくラスティをにらみつけた。
「誰かさんが邪魔するから着替えられなかったじゃないか！」
「遠慮はいらない、どうぞどうぞ」
「時間がないんだ！」
ちょっと汗かいたから着替えたかったのに！顔はもう、どこかでレストルームにでも入ってチェックするしかなかった。
とりあえずハンカチを濡らして、髪を撫でつけてとわたわたやっていると。
「カギかけて行っちゃうの？」
俺はどこから出て行けばいいの？とふざけたことをぬかす奴をじろりとにらんで言った。
「来たとこから出てけばいいだろう！ちゃんと鍵かけていけよ！！」
うがーっ！となりながらドアを開けようとノブに手をかけたところで。
「エリック、忘れ物」
そう言って何かぽぉんと放られた、のを受け取って。
「ラースティ！拳銃を投げるな！！」
セーフティがかかかっていたとはいえ、もし暴発したらどうするつもりだ！？と目を三角にして言うと、ラスティはいたずらが成功した子供の顔で笑った。
「約束に遅れちゃうよ、エリック」
誰のせいだ――――！！と思ったが、遅れてしまいそうなのは確かなので、名残惜しかったがドアを勢いよく開けた。
最後にちらりと見たラスティは、開け放たれた窓辺に立って、笑いながらひらひらと手を振っていた。また、涙がこぼれた。
やっぱり顔のチェックを後回しにしたのは正解だった。
３年半前のローマ、あの一緒に暮らしていた頃もこうだった。こんな風だった。
その日のエリックの車の運転は、いつになく荒れていた。どんなローマの走り屋も、舌を巻くほどに。
剛速球運転手エリック。
「……ラスティそれで、携帯は取り戻したんだろうな？」
戻ってきたラスティをとっ掴まえて、テスの時の意趣返しの意味も含めて話を聞いていたダニエル・オーシャンはいまやすっかり後悔していた。
後悔ならもう、最初の１分間ですでにすっかり完了していた。
「携帯？」
それっておいしいの？と言わんばかりのラスティのボケボケぶりに、ダニーは控えめに頭を抱えた。
「おいおいしっかりしてくれよ、ラスティ。おまえの、元恋人だかなんだかに、うっかり盗まれた携帯を取り戻しに行ったはずだろう？」
「元恋人？」
ダニーは自分の失言に気づいた。ラスティの顔がぱぁっと輝いたからだった。後悔先に立たず。
「そう思う？」
「……思ってもなんでもいいから携帯」
ダニーは濃い目のコーヒーに救いを求めて手を伸ばした。
「携帯ね……サービス会社に連絡して、止めてもらっているからダイジョウブ」
「……つまり取り戻してないんだな？」
「エリック大事に持っていてくれるかなぁ？なぁどう思う、ダニー？」
ダニーは自分の来し方を深く反省した。
テス絡みの大仕事のとき、きっと自分も多かれ少なかれ、こんなだったに違いない。
あのときは悪いことをした、と今、心の底から反省した。
「……多分ね」
「今度いつ会えるかなぁ……っていうか追っかけてきてくれるといいんだけど……」
恋は盲目とはよく言ったものだった。きっと先人にも、同じ苦労をしたものがたくさんいたに違いない。
「まぁ飲め、ラスティ」
「うん、ありがとダニー。やっぱり、タトゥーは消すべきなんだろうか……？」
ダニーはテレビ映画に集中することにした。今のラスティに何を言っても無駄だったからだった。
「やっぱりあのときやっちゃうべきだったかなぁ？」
そう言いつつ、ラスティはぼたぼたこぼしながらワインを口に運んでいった。
「ラースーティっ！」
同じ頃、絵画盗難被害者からのＤＶＤを見ていたエリックが叫んでいた。
「なんだこれは――――っ！！」
防犯カメラのＤＶＤ映像の中には、リアルな絵画盗難の現場シーンが、バッチリと映されていた。その作業の手前には。
『エリック見てる～？』
手を振ったり投げキッスをしている馬鹿者の姿があった。
「ラスティのあほんだら――――！！」
バカー！甲斐性なしー！という、エリックの叫びが、ローマの夜空にこだました。
どうも映画のあのシーンが納得いかなくて。
何故にイザベルは、不法侵入者ラスティがいるっていうのに
上着は脱ぐは、背を向けるは、口紅塗りなおしたりするのか？
ラスティ恐るるに足らずと思っているのか
元恋人だからたいしたことは出来まいと踏んでいるのか
それとも誘惑しているのか、単にボケているのか？
その行動は謎だ。
なので書いてみました♪
ぼけぼけエリックに、ストーカー風味なラスティです♪
ダニーいとあはれ（笑）。