そいつの顔には見覚えがあった。
「ここ、いいかな？」
人なつこい笑みを浮かべて、目の前に立つ男を昨日も見た。確かここで。同じ場所で。
職業柄、人の顔覚えることと識別は訓練してあったし、相手は別に変装しているわけでもなんでもなかったから。
「……どうぞ」
でも席なら他にもあいてるよ、と思ったが好奇心には勝てなかった。
様子のいい若い男、ということで女達の視線がいっとき一気に集まって、そしてしばらくとどまって、散じた。まるで、魔法でも使ったみたいに。
オープンカフェはマンウォッチングには最適で、昨日もそうだった。警察官に追いかけられたね、と言ったら何かの間違いじゃない？と軽くいなされた。
確かに警察官数名とおいかけっこはしていたみたいだけど、１日たってこうしていられるってことは、しかも同じ場所に現れるってことは、
やましいことはないということなのかと思って不問にすることにした。第一、『おまわりさん』の仕事は管轄外だった。
「メニュー見せてもらっていい？」
「あ、ああ、ごめん、どうぞ」
手に持ったままだったメニューを、相手に渡した。
メニューにざっと目を通すその姿は、真剣そのものだった。
「ここって何が美味しいか知ってる？」
「たいがい美味しいよ」
「そっか。まだそんなに腹は減ってないんだよな……カプチーノと……」
メニューを上から下まで、何度も眺めおろしながら、ぶつぶつ言っていた。
ずいぶん真剣なんだなぁ、一食たりともおろそかにはしないとかいう、グルメなんだろうか？
「チョコレート、っていう気分じゃないしな……タルトも……うーん……ティラミス、…にしよう」
そう言うと、メニューを振って、ウェイターを呼びつけた。
「ティラミスとカプチーノを」
ウェイターは、従順に復唱して行った。
「ラスティ。ラスティ・ライアンってんだ、あんたは？」
メニューを置くと、彼、ラスティはテーブルの上に身を乗り出すようにした。
「あ……エリック・バナ」
たまたま相席しただけなのに、どうして名乗りあうことに？と思ったが、名乗った上で聞かれたら、答えないわけにはいかなかった。仕事中じゃあるまいし。
「エリック」
納得した、というようにラスティはわたしの名前を飲み込んだ。
カプチーノもティラミスもあっという間に来る。こういった店はスピードが身上だから。
「エリックは何頼んだの？ラテ？」
大振りのカップをのぞき込みながら、ラスティはティラミスをすくい取って一口食べた。
「あ、ああ……そう」
なんだかさっきから、どもってばかりだった。あがってしまうとどもるクセが出るのなんて何年ぶりだろう？
人前でしゃべるのだって、昔に比べればずっと馴れて、震えたりしなくなったっていうのに。
「ここってティラミスが美味しいって話だね」
「そう……らしいね」
なんとなく落ち着かなかった。それは女性客の視線が集まっているから？ラスティにやたら見つめられているから？それとも、アメリカ人ってのはみんなこうなのか？
「一口どう？」
言われたときには、目の前にティラミスがのせられたスプーンがあった。これはどう見ても。
「子供じゃないんだから……」
残念、食べさせた上げたかったのに、と言いながらさほど悔しく思っているでもなさそうに、ラスティはスプーンごとこっちに寄越した。
「ありがとう」
一口食べたティラミスは、とても美味しかった。確かに話題になるだけのことはあった。
「美味かった？」
「ああ」
スプーンを返しながらそう言うと、ラスティは思いもかけないことを言った。
「エリックも頼めばよかったのに」
「え？」
「何日も悩んでメニューにらみつけるくらいなら」
「え、あ……なに……」
「だってもう、ラテを頼んであるのに、メニューをおそろしく真剣ににらんでて、ずっとにらんでて、それでまわりのことをきょろきょろうかがっていて
……そんなに甘いものを頼むのに抵抗ある？」
「シャーロック・ホームズ？」
呆然と呟いて、失礼ながら指差すと。
「『アフガニスタンに行っておられましたね？』」
そう言って、ラスティは弾かれたように笑った。
「俺はあんな偏屈なイギリス人じゃないよ！せめてネロ・ウルフにしてくれ、美味いもの食えそうだし」
「なんだそりゃ」
ラスティの言い草に、思わず笑ってしまった。
「やっと笑った」
「え……？」
気がつくとまた、ラスティは真っ向からわたしを見つめていた。
「いきなり変なのが馴れ馴れしく来たから、ずっと表情かたかったよね」
「そ、そっかな？」
そんな失礼を？と思って、頬に手を当てぐにぐにとやったらまた笑われた。でも、
不思議と嫌な気はしなかった。
それからはすごく話が弾んだ。
こんなに楽しくて、時間のたつのも忘れるほど長話をしてしまったのは、これまた何年ぶりだろう？
こっちには仕事で来ているから、世間話をするくらいのつきあいはあったけれど、『友達』と言えるほどのつきあいのある奴はまだいなかった。
初対面に近い相手に何話してるんだろう？と何度も思ったがとまらなかった。あきれられるかも？とも思ったが、
ラスティは聞き上手だったので気がつけばプライヴェートなことまでずいぶんしゃべっていたように思う。
母方の郷里がアムステルダムだとか、そちらのほうに引きがあるんだとかいうことも全部。
それからは、そのカフェに行くのが楽しみになった。約束しているわけじゃないから、行ったって必ず会えるわけじゃなかったれど、たいていラスティはやってきた。
先に来ていることもあったし、後から来ることもあった。１番最初に、新聞を広げているラスティに声をかけるのは、一大決心が必要だった。
しばらくするとだいたいこの時間ならいる、ということがお互いに分かってきたので、なおさら会うようになっていった。
「エリックは有能なんだな」
仕事の話を、差しさわりのない範囲でしていたら、ラスティにそう言われた。
「……ありがとう」
頬の体温が上がったような気がしたが、がんばっていることは確かなので、誉められて素直に嬉しかった。
ラスティはちょっと、食べすぎで腹に一瞬違和感が、というような顔をしたけれども。
「ラスティも、ローマには仕事で来てるんだ」
「ああ、車の売り込み。好きだからやってるけど、これがなかなか」
「不景気だから」
「まったくね、やんなっちゃうよ」
ラスティは、オーバーに肩をすくめてみせた。映画みたいなそんな仕草も、ラスティがやるとさまになっていた。
「それじゃ今どこに住んでるんだ？ホテル暮らしって言ってなかった？」
「そう、安ホテルに長逗留」
「不自由じゃない？」
「いや、それほどでも？掃除とかしてくれるんで、楽は楽だし。でもちょっと、さすがに飽きてきたかな……」
キッチンはあるけどたいしたものは作れないし、窮屈だし。
「何よりあそこは『家』じゃないしね」
いくら俺みたいにふらふらした生活してる奴でもちょっとね、とラスティはまたなつこい笑みを浮かべた。
「いつまでこっちにいるかも決まってないから、うかつに部屋を借りるわけにもいかないし、それに高いし」
「それなら……」
だから、どうしてそんなことを言ってしまったのか。
「わたしのところに、来ない、か？」
「エリックのとこ？」
そう思っているのに、うなずいてしまうのは止められなかった。言い出したことを、なかったことにすることも。
「もとは夫婦で住んでいたところらしくて、やたら広いんだ。さほど居るわけでもないからいいかと思っていたんだが、
シェア出来れば……家賃の節約にもなるし……わたしも異動になるかもしれないから、そう長いことはいられないと思うけど節約にはなるだろうし……」
もごもごと、あれこれ言っている間に、ラスティに手を取られた。
ぎゅっと握られた。そんなにホテルじゃない住居が嬉しいんだろうか？
「いいの？助かるよ、エリック！」
まぁいいか。
ラスティが喜んでくれているなら、まぁいいか。
「……ところで家賃いくら？」
こそっと聞いてくるラスティが、あんまり心配そうだったので、つい大声で笑ってしまったけれども。
「部屋はこんな感じ」
ルームシェアするという、大手を振った理由があっても、人を招き入れるのはドキドキした。
「へ、ぇ……」
ラスティは古い街並みにあるアパートを、ものめずらしそうにきょろきょろ見回していた。
「こんな風になってるんだ」
「ホテルとは違う？」
からかうつもりで言ったらば、真顔でうなづかれた。
「やっぱり違うね。俺の泊まってるのは、全然ゴージャスなホテルじゃないし、アメリカ資本だし」
「本当にそうなの？みんな同じような部屋なの？」
「そうなの。アメリカ屋さんは、差別問題にビンカンだから」
なるべくいつもの暮らしぶりを見てもらうためにも、片付いていないのならそれをありのままに見てもらったほうがいいっていうのに、
ついあれこれと片付けてしまったので、どうもいい顔をしたがっているような後ろめたさがあった。
「ああ、これが噂の！」
わたし個人の部屋を見たいというので案内すると、ラスティは爆笑をこらえるように口元を歪め、腹を押さえた。
「……笑いたきゃ笑えば？」
許可すると、ラスティは腹を抱えて笑った。この笑い上戸！アメリカ人てのはみんな、こんなによく笑うもんなのか？
ラスティの笑いを誘ったのは、部屋狭しとおかれている、ダブルベッドだった。
「ほ、本当にダブルな、んだ……」
「だから言っただろう」
前の住人の置き土産で、もったいないからそのまま使っているけど、独り者なのでとってももてあましているって。
「いやぁ感動的なダブルだねぇ。で、何？独り寝なの？ここで？」
「……プライヴェートです」
ちょっと気分を害したので、憮然として言ってやった。そうするとラスティはあわてて。
「それが悪いってんじゃないよ。恋人でもいたらルームシェアなんてしてもらえないからさ、助かってるんだ、ホント」
みえみえの嘘かもしれなくても、あまりにもあわてたその物言いに笑いを誘われて、いつまでも不機嫌な顔をしていられなかった。
笑うと、ラスティもほっとしたようだった。
「無神経なこと言ってゴメンナサイ」
しゅんとしてそう言っているとまるで、ラスティは叱られている子供みたいだった。
だから追い出さないで下さいプリーズと、捨て猫みたいに言われれば。
「……気にしてないよ」
思わず、下げた頭に手が伸びた。そのまま、お母さんのように撫ぜてしまった。
「恋人がいないのは本当のことだし」
きちんとつきあっていたガールフレンドは……おそろしいことに大学時代以来いないかもしれなかった。
瞬間的につきあう人はいても、みんな長続きしなかった。仕事熱心すぎる、仕事の虫と言われる由縁だった。
「いないの？本当に？」
そう言ったら、ラスティのほうが驚いたような顔をした。
「ローマにいないだけじゃなくて、アムスにも？」
うん、とうなずくとラスティはますます珍妙な顔をした。そんなにおかしいだろうか？……おかしいか。
「そっか……」
それとルームシェアリングと、何の関係があるんだろう？いて、連れ込むのがどうこうという問題なら分かるけど、いないんなら別にいいじゃないか。
「それで、どうする？」
「え？」
心ここにあらず、といったふうなラスティに、あらためてそう持ちかけた。
「君に使ってもらう部屋はさっき見てもらったとこ、キッチンバストイレは共同、ただしわたしの部屋からしかバスルームにはいけないから、ここ通ってもらうことになるけど？」
いちいち爆笑するようなら出入り差し止めるけど？と腰に手を当てて言うと、ラスティは破顔した。
「もちろん、借りる。決定」
笑わないようにするよ、とラスティは右手を差し出した。
「よろしく、エリック」
差し出された手を、握り返した。
「こちらこそよろしく、ラスティ」
それが、同居スタートの合図だった。
「先に風呂使うよー」
「はいはい」
エリックがバスローブ姿で通りかかったのは、映画を見ているときだった。
ちょっとセクシーな女優が出ているもので、さりげなくエロティックなシーンが入っている、一応年齢制限のある映画を見ている最中だった。
じきに、バスルームからシャワーを使う音がしてきた。あの水音のするところで、バスローブを脱いだエリックが、当たり前のことながら
一糸纏わぬ姿でシャワーを浴びていると思うと……。
「いかんいかん」
あわててビールを呷った。
想像が妄想へと名前を変えて、どんどん羽ばたいていってしまう。缶ビールのふちを、歯でがしがし噛みながら、俺はじっと我慢をした。
相当つらかったががんばった。
しかし、１番我慢のきかないところを、抑えたりなんかは、した。
「……結構、ツライ、かも……？」
一緒に暮らさないか？と持ちかけられたときは天にものぼる気持ちだった。エリックには、そういったつもりはさらさらないのは分かっていても、
それでも側にいられるのは嬉しかった。素顔のエリックが、たらふく見られるだろうし、生唾もののエリックだって山ほど見られるに違いないとほくそえんだ。
しかし、現実はそんなに甘いものじゃなかった。結構しんどかった。
目の前で、まるで無防備に、こっちがそんなことを考えていようとは夢にも思っていないだろ相手と、トモダチのような顔しているのは結構骨が折れる。
それが生業な俺でさえ。
ときどき会うだけでももしかしたら、ボロが出るかもしれないってのに、よりにもよって一緒に暮らしているんだからなおさらだった。
もっとただのルームメイトとして、ドライに割り切った関係ならいいんだろうが、案外淋しがりやなエリックにそんなことをしたら、
友達づきあいもしたくないんだと思われて、距離を取られるに決まっていた。
距離うんぬんも大問題だったが、エリックにそれで誤解されるかもしれないほうが巨大な問題だった。
「困ったなぁ……」
最初、街で見かけたときは、面白そうな奴だと思った。
何を悩んでいるのか、必死の様子でカフェのメニューを見ているから目に留まった。
ついで濃い色の巻き毛、不思議そうにこっちを見ているまなざし、驚いたような物言いたげなくちびる、背の高そうなところ、
いい身体していそうなところ、はにかみやそうなところ、照れ屋っぽいところ、一途そうなところ、気の良さそうなところ、そんなところが全部、気になってしようがなかった。
だから次の日に、確かめるためにもう一度そのカフェに行った。警察官と追いかけっこをするという派手なことをしでかした俺のことを、
エリックはちゃんと覚えていてくれた。まさか本当に追っかけられていましたと言うわけにもいかなかったので、誤魔化したけど、
納得しきっていない顔をしていたけど。話してみるとエリックはまったく思ったとおりの人柄で、ちょっと調べてみたところ、
ユーロポールの、将来を嘱望されている凄腕捜査官で、近々アムステルダムに栄転するだろうと言われているなどとは、にわかには信じられないほどだった。
俺の目の前にいるエリックは、ぽやんとした気のいい奴だった。
エリックの前にいると、なんだかやたらと笑ってばかりいた。
エリックの警戒を解きたいという狙いもあったけれど、どうにも笑えてしまうのだ。何がそんなにと思うほど、楽しくて楽しくて。
「なんだか、あの捜査官といるときのあんたは、えらく楽しそうだな」
仕事仲間のフランクに、そう言われたことがあった。カフェで話をしているところを、見かけたんだそうだ。
商売柄、視線には敏感なのに全然気づかなかったというのは問題だった。それだけ腑抜けているってことなのか？
それもあって、エリックの誘いに乗った。
部屋の中でなら、多少腑抜けていてもそんなにヤバいことはないだろうと思って。しかし、同居は他の危険もはらんでいたのだった――――。
テレビの中では、女優が男優といちゃつきだしていた。
「……いいなぁ」
末期だ、相当末期だ。
映画の中のからみがうらやましくなるなんて！しかも！女優が服を脱がされて、いよいよベッドインで、それは別に良いんだけども、
タレてる女だなぁと思って見ているだけだったけれども、髪の色が良くなかった。褐色の巻き毛だったのだ。
そしてさらにまずいことには、相手役の男優は金髪だった。
女優の、演技派な喘ぎ声が、どんどん切羽詰ったものに変わっていく、こっちもどんどん切羽詰っていった。
スナックを食べる手は、すっかり止まってしまっていた。悪いことに、そういうときの連想というのはろくなことがなくて、ついこの前、
エリックをクラブに連れて行ったときのことを思い出してしまった。
ローマには、いいクラブがたくさんあるっていうのに行ったことがないっていうから、そりゃいかんよ！と連れて行ったのだった。
若向けの音楽のうるさいばかりのところじゃなく、大人向けのいい曲をかけるところへ。
……そりゃ多少は考えて、ユニセックスなところをチョイスしたけれども。
案の定、エリックはとてもめずらしそうに、仕事以外でこういうとこに来たのははじめただとはにかむように言って……
その照れ笑いを俺は、食べてしまいたいと思ったのだった。
そのうちにさらに照明が落ちて、チークタイムになった。
「踊ろっか」
小さいテーブルの背高イスに座って、にっこり笑って言ってやると、これまた予想たがわずエリックはうろたえた。
「え？だって……チーク」
「男同士で踊ってるのもいるよ。そういうジョーク有りの店だから」
女同士もね、というとエリックはあらためてフロアを見渡した。
「………」
それでもちょっと迷っているようだった。
「練習しとかないと。恋人と踊るときのために」
なんて、我ながらなんてまあ嘘八百！自分がエリックとチークを踊りたいだけだっていうのに！
「じゃあ……」
そう言ってエリックは、おずおずとイスからおりた。神サマありがとう！と心の中で何の感謝だか分からない感謝を捧げて。
しかもどの神サマに捧げたのかも分からない。クラブの神サマ？チークの神サマ？恋の神サマ？
なんでもない顔をしながら、手に汗をかいてやしないかとドキドキだった。緊張して背中がつりそうだとか、
エリックの足を踏まないよう気をつけるあまりリードがおろそかになってぶつかりがちだなんてことを、知られるわけにはいかなかった。
「……テンポが遅いと……お、…動きづらいな」
「流れに身を任せるようなもんだからね」
何を答えているのか、正直言ってよく分からなかった。ただ、脳細胞をフル活動させながらどうかとんちんかんなことを言ってしまいませんように！と
祈るばかりだった。上の空だったのには、れっきとしたわけがあった。
「ここらで……したほうがいい」
「え？」
下ばかり見ていたエリックが、上を向いた瞬間に――――キスをした。
ただし、触れるだけの。
「こんな風にね」
ウィンクしてみせたから、ジョークだと思ってくれたと思う、でもエリックは、かわいそうなくらい赤くなった。
「ラ、ラスティ何を……」
「チーク踊るんなら、キスくらいしないとね」
そう言って、うつむくエリックの髪にキスをした。いい匂いがした。エリックの匂いだった。
そこで陶然となって……ついに足を踏んでしまったわけなんだけれども。
エリックが笑ってくれたからまあいいか。警戒してたのも解けたみたいだし、と思うことにした。
そのときのことを、思い出してしまった。
ゆるくだけど抱きしめたエリックの感触とか抱き心地とか、髪の匂い肌の匂い、唇の感触とかどういったことがすべて。
「やべ……」
そう思いつつも止まらなかった。
だんだんのっぴきならなくなっていたし、いつまでもシャワーの音がつづくわけでもなかった。
やるとしたら、手早く済ませないとならなかった。
「……っ」
思い切ってジッパーを下ろした。ボタン式のジーンズでないことにも感謝した。あんなのはいてたら大変なことになるところだった。
下ろすととたんに、すでにのっぴきならなくなっていたモノが、勢いよく飛び出してきた。かわいい倅が。
記憶の中のエリックを総動員させながら、耳だけは映画の音を拾っていた。
女優の喘ぎ声は、エリックの声にかえて、あの確かな抱き応えを思い出しながら。
「く……っ」
相当急いだおかげで、終わりは早かった。早かったのはいいけれど、夢中になりすぎてお留守になるという、あの悪癖が発動したようで。気がつけば、
シャワーの音はとっくに止まっていた。
「……オープンスペースでそういうのはちょっと……」
「エ、エリック……？」
いつのまに後ろに？ってか俺なんか、ヤバいこと口走っていなかっただろうな？瞬時に真っ青になったのを、エリックはどう誤解したものやら。
「自分の部屋でやってほしいんだが、ラスティ」
「……すみません」
記憶を総動員させたが、とにかく何も口走ったりはしていなかったはず、と思ったので安心することにした。
「若いね」
頭をぽんぽん叩かれてしまった。すると何かい？俺はいい年をして、映画の女優でしちまった奴？
……ものすごく情けなくなった。想像のエリックで、したのと、情けなさはどっちもどっちだったが。
それでも、わかったことがひとつだけ。
女に逃げられて、やけっぱちになった奴の気持ちが、今なら良く分かるような気がした。
ダブルのベッドの半分だけ使って眠るエリック。
新婚さんごっこにつきあってくれるエリック。
バカなひっかけに上手いことのってくれるエリック。
俺の――――大好きなエリック。
絶対一目惚れだと思うんですけどね。双方共に（笑）。
でも、ラスティはともかく、エリックは全然分かっておりません。
素で、とんちんかんなことを考えている人のことを書くのって楽しいなぁ！