なにしろ２人はハニーな期間中だった。
厳密には結婚したとかいうわけではなかったが、ラブラブであることは論を俟たなかったし、長い別離期間のあとの偶然の事件を活用しまくり、
ついにたどりついたハッピーなターニングポイントを経て、甘い甘い生活を送っていることを疑う者はいなかった。ラスティ所有の、
赤字なことをアピールするために、外壁を赤く塗りなおしてみるのもいいんじゃないか、客の同情が引けるかもテスにペンキの調合頼んでみるか？
などと悪友に茶々を入れられているホテルの従業員たちも、しばらく留守にしていたボスが、どうやらヨーロッパまで行って恋人を連れてきたらしい、
というのはもうすっかり知れ渡っていた。おそらくきっと、ホテルに無許可で出入りしている、野良猫にさえも。
やっとめぐりあって、許しあってこうして手を取り合って近くにいられるようになったのだから、出来る限り離れたくない、
と思っているわけでもないのだろうが、そんな２人のベッドはキングサイズのダブルだった。トリプルと、どこが違うんだ？というくらいには広かった。
やっと連れてくることが出来たエリックがそれを見て、よもやまさか、このベッドには色んな人が暮らしていたことが！？
という疑惑を持たれたこともあった。そのときもラスティは必死に説明したのだった。
なにしろ傷のない脛肌などない！というくらいに過去に色々あるラスティなので、弁明も大変だった。
結局、その昔寝返りもろくにうてないような窮屈なベッドしか使ったことのないラスティの、手足の伸ばせる大きいベッドへの憧れせいだと分かって事なきを得たが。
その大きなベッドで、今日も２人は枕を並べて眠っていた。
ローマでの短い同居時代もどうしていたのと、大きなベッドなこともあって、毛布の取り合いや蹴飛ばしあいもなく今のところは上手くやっていた。
昨夜は、いちゃいちゃはしたものの、その先まではせずおやすみのキスをして手をつないでやすんだのだったが。
夜半過ぎに、ラスティが飛び起きた。
「………っ！！」
寝ていても一動作で起きられるように自分を訓練することは、エリックもしていた。エリックも職業柄、ラスティも職業柄。だからラスティが、
悪い夢でも見たかなにかして、いきなり跳ね起きても不思議はない。不思議ではないのだが――――心配ではあった。
「ラスティ？」
ラスティの動きで、エリックも目を覚ました。部屋の中の灯かりはすべて落としてあったが今の今まで寝ていたので、うすぼんやりとではあったが何が起きたのかは分かった。
ラスティが怯えたような驚いたような顔をして、肩で息をしていて、嫌な汗をかいたらしく額をぬぐっているのは。
「ラスティ、どうした？」
エリックが腕に触れると、ラスティは感電でもしたかのように、ビクっと身を震わせた。それからエリックを振り返る一瞬の間で、
今はいつでここはどこで誰と一緒にいるのかすべてを飲み込んだようだった。
「あ……起こしちまった、か……わる……」
「悪いことしたと思うんなら」
エリックも身を起こして、ベッドサイドの小さな灯かりをつけた。ラスティは、さし初める朝日を浴びそうな吸血鬼のようにその光に手をかざした。
エリックはそのままするりとベッドから降り立った。ラスティは暗闇に１人留守番に置いていかれる子供のような目をしてエリックを見上げたのだった。
「悪かったと思うなら、つきあうこと」
そう言ってエリックはラスティの手を取った。
エリックはラスティをキッチンに連れて行くと、シンクに一番近いイスに座らせ冷蔵庫を開けた。
「ラスティはちみつ大丈夫だよな？」
あれだけ甘いもの大王で、間食の王者なのに、はちみつはダメとか言ったら笑えるな〜と思いながらエリックは聞いた。
「あ、ああ……」
パジャマのまま、所在なさそうに座っているラスティはまるで、これからおねしょについて叱られることが決まっている子供のような顔をしていた。
「じゃあこれも大丈夫だな」
言いながらエリックは、ミルクパンに牛乳を入れて火にかけた。やっぱりホットミルクは火で作るのが一番だよな、とか言いながら。それからラスティを振り返って。
「クッキーかビスケットあったっけ？クラッカーとかでもいいけど」
エリックの言葉に、ラスティは、ああとか、ううとか言いながら立ち上がった。食料品の棚をごそごそやっていたかと思うと、
大きなビスケットの箱を持って戻ってきた。
「ありがとう、ラスティ」
エリックは言葉もなく立ちつくすラスティにキスすると、あたためたミルクをはちみつを少し入れたマグカップに注いでいった。
「はい、ラスティの分」
「ありがとう……」
受け取ったラスティに、座るよう促すとラスティはイスを動かして、いつも以上にエリックにひっついて座った。
「あったかいうちに飲んで。あ、でも熱いかも」
ちょこんと舐めてみてからエリックは言った。
「舌やけどしないようにね。気をつけて」そう言って笑うエリックを、ふうふうしながらマグカップに口をつけるエリックの、その一挙手一投足
すべてを見逃すまいとするかのようにラスティは見つめていた。
これをかぎりにもう、二度と目にすることの出来ないものを、しっかりと焼きつけておこうというように。
「ラスティ」
「うん……」
「冷めるってば」
「うん……」
一応返事はするものの、ラスティの手はマグカップを持ったまま動こうとはしなかった。
相変わらず、じっとエリックを見つめているばかりだった。
「ラースティ」
「うん……」
「ラスティ、いいか？」
「うん？」
エリックはついに、最後の手段に出た。ラスティの頬を両手で包むと、すぐそばまで顔を寄せて言った。
「今すぐそのミルクを飲んでビスケットの１、２枚も食べないと」
「食べないと？」
「キスしてやらないぞ」
仕上げにエリックは、ラスティの頬を持つ手に力を入れると、むにっと押した。ラスティの男前の顔が、つぶれた丸パンのような面白げなものになった。
エリックがそう言うとすぐに、手さぐりでビスケットを掴んだラスティに、エリックは駄目押しに言った。
「飲むな？」
「………っ！」
掴まれたままの頬を、ラスティは可能な限りぶんぶんと上下に動かすと、マグカップを持たされた手に力が込もった。
「よろしい」
エリックはにっこりと笑うと、ビックリ目になっているラスティの団子状になった鼻にそっとキスをした。
あちあち言いながらミルクを飲み、ばりばりと３枚同時にビスケットにかぶりついて、器官に入ってむせ、ミルクの熱さにまた悶絶して、
見かねたエリックに水をもらって人心地つくまで、ラスティはそりゃあ騒がしかった。おかげでエリックは、ビスケットを半分しか食べられなかった。
別におなかが減ってるわけではないから構わないが。
「ラスティ」
ラスティの口元に点々とついているビスケットの欠片を取ってやりながらエリックは口を開いた。
「どうしたの？」
「こわい…夢を……見たんだ……」
「夢？どんな？」
思い出すのも嫌だ、というようにラスティは、膝の上の指を組みなおした。
「……言わないと……？」
「そう、ダメ。人のこと起こしたんだから」
飛び起きなくても起きただろうけど、ということはこのさい問題ではなかった。
問題はただひとつ。ラスティのことを心配しているということだった。
「ただごとじゃない感じだったよ。怪獣にでも踏んづけられる夢でも見たの？ここが壊されるとか？」
一番最近見た映画は、特撮物の元祖とも言うべき古典的白黒映画だった。
「ん？」
膝の上の手を握り、エリックはうつむくラスティの顔をのぞき込んだ。
「……逃げ出す夢」
エリックの手に促されて、ラスティはぽつりと言った。
「逃げるの？怪獣から？」
「違う」
ラスティは首を振った。いつものラスティの、それこそ自分こそが太陽！とでもいいたげな自信満々な余裕ある様子とは、雲泥の差だった。
「じゃあどこから？」
エリックはやさしく尋問を続けた。そういえば捜査官時代、尋問が得意だったっけと思い出しながら。
貝のように口をつぐんでいると言われていた被疑者も、エリックが取り調べれば何か言った。そこを糸口に事件が展開したことが何回もあった。
実のことろエリックにはそれが不思議でならなかった。自分は、誰でも知っているようなパーソナルなデータをよく読んで、それから話しかけるだけなのに、
どうしてみんな答えてくれたんだろうと。中には泣き出した者もいて、悪いことをしたような気になったりもしたものだった。
まさかまたその技を、しかもラスティにすることになるとは思わなかったなぁ、とエリックは思った。
なんだか感慨深かった。もう二度とやることはないと思っていた捜査官の仕事のノウハウが、いつのまにかまた役に立っている。
意識する間もないほど自然に。つまるところ生きてる限り、やってることなんて、ぐるりとまわって１回転なんだろうかと考えたりもして。
「何から？」
言い出しかねているラスティに、エリックは言葉を変えてみた。どこから逃げるの？何から逃げるの？それとも？
「それとも……誰かから？」
ラスティはまたビクリと反応した。これでもう、ほぼ決まりだった。エリックには分かってしまった。自分だって同じだから。
ラスティのように跳ね起きこそしないけれど、午睡の夢に見て、起きたときには自分がどこにいるのかなかなか信じられなくて、
動悸が激しくて胸を押さえたこともあった。そして、それはみんな夢なんだと言い聞かせて。
みんな夢、もうみんな――――過去のことなんだからと言い聞かせて。
「ラスティ」
「エリック……」
「ローマにいた頃の夢？」
ラスティはうなずいた。
世にも情けない顔をしながら、それでもエリックを見て。ずいぶんな進歩と言うべきだった。
「あのアパートの窓から出て行く夢？」
ラスティはまたうなずいた。エリックは１度まばたきすると、確認のための、最後の質問を口にした。
「逃げたのはじゃあ……わたしから？」
ラスティは、うなずくかわりに両手に顔をうずめた。エリックの手の中にあった手を取り返して。
「ラスティ……」
「どうして……俺はあのとき……」
ラスティの指の間から、嗚咽のような呟きがもれた。
「ラスティ」
「俺はバカだ……」
「それは分かってるけど、こっち見てラスティ」
エリックはひざまずいて、何度もラスティの指に手の甲に手首にキスをした。それから、今はごく短くなっているラスティの髪にも。
そういえばこの髪がもう少し長かった頃、ラスティのことを違う名前で呼んでいた頃にはよく、指をすべらせてくしゃくしゃにしてたっけ、
今はもう出来ないけど、もしまた伸ばすようならやってみよう、とエリックは心に決めた。
「ラスティ……こっち見て」
ラスティはおそろおそる手を離して、そこにいるのが信じられないとでも言いたげな目でエリックを見た。
エリックが内心、おばけでも幽霊でもないんだけどな、と思ってしまうくらいに。
怯えるラスティの頬にキスすると、エリックは笑って囁いた。
「しかたないよラスティ、これは発作なんだから」
「発作……？」
「同じ病気に罹ったんだ、２人して」
「病気……？」
「そう。罹患者はこの世にたった２人」
「２人……？」
ラスティは、自分と、それからエリックのことを指差した。この際だからエリックも、ラスティの無礼を許してやることにした。そしてうなずいた。
「そう、ラスティとわたし。２人だけ」
「俺とエリックと……」
「知ってる、ラスティ？この病気は、『３年半病』って言うんだ」
「３年半病……？」
「もうすっかり治ってるんだけど、ものすごい大病だったから忘れることなんて出来なくて」
エリックはラスティの胸に手を置いた。ラスティの手は、自分の胸に当てさせた。
「思い出すと今でも痛むんだ。ファントムペインみたいに」
「ファントム……」
「知ってる？『ファントムペイン』」
ラスティはうなずいた。
「ここ？」
「そうここにある。あるはずだった３年半を、切り取られた痛み」
「ここに……」
ラスティは、痛みがあるはずだとされる場所を見下ろしながら呟いた。
「大病したようなもんだろ？ラスティもわたしも。そのことを、忘れることなんて、出来ない相談だろう？」
エリックの言葉に、ラスティはゆっくりとうなずいた。
「忘れられないなら無理して考えないふりしなくていいんだ。わたしだって、思い出せば今でも泣けるよ、ほら……」
言いはてもせず、エリックの目からは透明な雫が零れ落ちた。ラスティはあわててそれを、パジャマの袖でぬぐった。
「ありがとう、ラスティ。……だからさ、忘れるのは無理だから、せめて少しずつ、思い出さなくて済むようにしよう？」
「……うん……」
「今はまだダメかもしれないけど、だんだんとゆっくりと」
「うん……」
「それでさ、５０年後にはあんなこともあったねバカだったねって笑い話にしよう？」
「５０年……？」
「そう。ラスティじいさんとエリックじいさんになって、ひなたぼっことかしながら思い出話するんだ」
「その頃俺いくつだ……？」
「爺になってもきっと愛してるよラスティ」
そう言ってエリックは、ラスティの口元にキスをした。離れようとするエリックに、ラスティもキスを返した。
「ラスティじいさんとエリックじいさんになって？」
「そう、そばにはもしかしたらダニエルじいさんとテスばあさんなんかもいるかもしれない。一緒にバカンスしてるのかもしれない。他のみんなもいるかもしれない」
「ソールやルーベンはさすがに無理そうだな……」
ラスティは泣き笑いのような顔になってそう言った。
「分からないぞ。ギネスに乗る有名人になっているかもしれない。今のうちにサインをもらっておかないとな。ラスティ……」
「うん？」
「発作、おさまった？」
エリックがまたキスをした。まずは手に、それから鼻の横に。
「うん……おさまった。ありがとう、エリック」
てれくさそうにラスティは笑った。
「効くだろ、これ」
エリックは甘いミルクの入っていたマグカップを指差してみた。
「うん、すごく」
なんだかものすごーく、ラスティがかわいいなぁと思うと自然に、笑えてきて仕方がなかった。エリックは。
にこにこ笑うエリックを見ているとラスティも、つられて笑えてきてしまうのだった。
「ラスティ……」
ひざまずいた状態からラスティを仰ぎ見て、こっちにおいでと呼び寄せると、エリックは掬い取るようにキスをした。それまでのもののような、
軽く触れるだけではないものを。舌でつつくと驚いたようだったラスティも、すぐに扉を開けて歓迎してくれた。
「ん………」
「…ふ……っ」
吸うというより感触を楽しむような、犯すような犯されるのを楽しむような、長い長いキスになった。
終えて結びつきをほどいたエリックのくちびるはすっかり濡れて煌めいていたし、目も同様に潤んで光沢を放っているようだった。
「エリック……」
「ラスティ」
喉を鳴らしたラスティの言葉を、めずらしくエリックはさえぎった。
「な、なに？」
なにかが喉にからまって、ラスティはなめらかな声が出せなかった。職業柄、これも大事な武器なのに。
「ベッドに……行かないか？」
それが眠るためのお誘いでないのは明白だった。エリックはまた、ラスティの所在なげだった手を握った。
立ち上がってエリックは、今度は身をかがめてラスティの額にくちづけた。
「ラスティ……」
ラスティのパジャマの、自分のとおそろいのパジャマのボタンをひとつひとつはずしていって、はだけさせた胸元に手を入れてゆっくりと撫でた。
「ラス、ティ……」
撫で回す手の動きに合せるようにして、エリックの腰も揺れていった。それは何も、ラスティの手がエリックの腰を掴んだからだけではなかった。
「エリック……」
ラスティは我慢できずにエリックを引き寄せると、パジャマの上からでも見て取れるほどになっていた、エリックの立ち上がった胸の飾りに齧りついた。
「あっ！」
その刺激に、エリックはかくんと頭をのけぞらせた。
「エリック……」
狂おしく抱きしめ、胸いっぱいに体臭を吸い込んで、エリックにも抱きしめ返されて、これに勝る薬はなかった。３年半病に、とてもよく効く薬だった。
「ラス、テ…ィ……」
耳からも、薬が入ってきた。気の毒なハムレットの父とは逆の効果をもたらす薬が。
「エリック！」
ラスティはついに立ち上がった。その勢いで、片手でエリックの肩を抱き、もう片方の手はエリックの膝裏に差し入れた。
ありがたいことにエリックも体重移動とかして協力してくれたから。
「ラスティ……はやく……」
ラスティはエリックを抱き上げて、ベッドまで大急ぎで運ぶことが出来たのだった。
「あ……あた、る……ラスティの、が……あ……」
はにかむエリックに出来る限りキスをして、運んでいる最中にも気づいたエリックに高ぶりは、ベッドに横たえたときには天を突くほどにもなっていて、
エリックが当たると言っていた自分のものもきっと、早く納めるべきところに納めろよと抗議しているような状態になっているに違いなかった。
しかし結局、ラスティはそれを知ることは出来なかった。
腕はパジャマを脱ぎ捨てることに忙しかったし、目は恥らいながら自分でパジャマを脱ごうとしているエリックを見るのに忙しかったからだった。
我ながら鼻息が荒いな、と思ったのが、しっかり記憶していることの最後だった。あとのことはよく覚えていなかった。
覚えているのはただ、エリックが熱く応えてくれていたことと。
エリックとの時間が、とても素敵だったことだけだった。
３年半に対する後悔や謝罪の気持ち、再現を恐れる気持ちなんかは
エリックにあればラスティにもあるのではないかと。
それを笑いとばせることもあれば、苛まれることも当然あるはずで。
どでかいミスは、完治した病気みたいなもんで、したことを忘れることなんて不可能なんではないかなと。
今はうまくいっていても、よろけそうなときにはまた顔を出すだろうし。
ガンバレお２人さん！西海岸は老後を過ごすのにもよさそうだぞ！（笑）