相手の害意なんて、疑っていなかった。
　ちっとも！
　それなのに手をかけられた瞬間、身がすくんでしまったのは何故だろう？
　足を割って、皮膚と皮膚を触れ合わせ、血潮を通い合わせるように触れてくる相手の、アキレスの気持ちを疑うなどということは、太陽の運行を疑うようなもので――――。
　ありえないありえない！
　アキレスがこの手の指に、力を入れようなどということは！

　それなのにどうして、その指の感触に身も心も震えてしまうのだろうか？
　まるでいますぐに力を入れてくれるのを望んでいるように。
　アキレスの手で、今すぐにこの、首に、力を。
　そうできたらわたしは、もうなにもなやむことも、くるしむこともなく、ただかんびにてゆびのちからをかんじ――――。
　力を込めてくれないだろうか？
　どうかほんの少しだけでも？
　それともこんなにも罪深い、わたしの首になど力を込める価値もないと。君はそう言うだろうか？
　アキレス――――。

「呼んだか、ヘクトル？」
「あ………」
「泣いてるぞ」
　そう言ってアキレスはヘクトルの目尻に手をやった。
　その指を取って、ヘクトルは軽く食んだ。指越しにアキレスがぴくりと反応するのが分かったが、止めなかった。そしてさらに、アキレスを見上げ――――。
「やっぱりあんたは面白いなぁ……」
　もう一方の手で、ヘクトルの髪をなでながらアキレスはしみじみと言った。
「……？そう、か？」
「恥らうかと思えば、そんな誘うようなこともやるし……あきないし意外性があるしかわいいし触り心地がいいし色っぽいしたまらないし抱きしめたいし綺麗だし強いしかぶりつきたいし……」
「……その辺にしておいてくれ、アキレス……」
　ヘクトルは顔から火を吹きそうだった。

「君こそアキレスだし格好いいし強いし……上手いし綺麗だし力持ちだし面白いし子供みたいだしやんちゃだしかわいいし」
「それから？」
「……ちっとも照れないし」
「他には？」
「わたしのことを好きだ愛してるなんて言うしかわいいとか綺麗だとか言うし……」
「それで？」
「君は変だ」
「そうか？」
「そしてわたしも変なんだ……」

「……やっぱりあんなものはいらないな」
「……アガメムノンの媚薬のことか？」
　アキレスは頷いた。
「あんなものがなくてもあんたはかわいいしこんなに熱く応えてくれるし……いつだってあんたとするのはたまらない」
「……精進しよう」
「『素晴らしく気持ちよくてたまらない』という意味だ、ヘクトル」
「アキレス、だから君は……」
「うん？いい男か？」
「……アキレス……」
　ヘクトルはアキレスに向かって手を伸ばした。
　アキレスはヘクトルに捕まえられてくれた。

　昏い思いにも今は。
　蓋をして。
　不安も懸念もなにもかも。
　今だけは押しやってただ。
　この腕の中と、時間の中に身をゆだねて。
　アキレスに熟れられるのは気持ちがいいな、とヘクトルは思った。首に手をかけられるのは、背徳的な悦びをもたらすものなのだな、と。
　喉元をさらけ出すことで、相手に生殺与奪の権利のすべてを明け渡したような心地すらして――――。