【オデュッセウス】
「月がきれいだな」
「そうだな。きれいな満月だ」
「郷里から見る月は格別だよ。特に外から帰ってきた後はね」
「だろうな。おつかれさん」
そう言って２人は、また手にしたカップを触れ合わせた。
薫り高い葡萄酒入りの金属が、波の音しかしない静かな海辺で鳴った。
「いやもう大変だったよ。アガメムノンは我が儘放題だし、アキレスはアキレスでややこしいことになってくれるし」
そうぼやくオデュッセウスは、肩を回して首をこきこきと揉んだ。
「トロイのヘクトルというのはどんな奴だった？」
「頭も気立ても感じもいい奴だったよ。アキレスが惚れこむわけだ」
「それで連れてきてしまうというのがすごいな。よくトロイ方が引っ込んだもんだな」
「一応プリアモス王たちに話は通させてきた。でないとまたヘレンたちの二の舞だからな」
「違いない」
笑いながら、どちらも手にした酒盃をあけた。
夜風に月光が、気持ちのいい酔いをさそっていた。「トロイであのあほんだからの手がかりをつかんだぞ」
「……あの魔女のことか？」
笑いながら尋ね返すと、オデュッセウスは大真面目にうなずいた。
「一時期トロイの城市に住んでいたことがあるらしい。人をやって足跡を探させている」
海を見つめるオデュッセウスの顔は、触れれば手が切れそうなほど真剣で。
「ありがとう」
「してみると、あの馬鹿馬鹿しいと思っていた遠征もまんざら悪いばかりのものではなかったな」
オデュッセウスは表情を緩めて隣に座る人を見た。とてもふくよかな、あたたかい笑みをうかべて。
「は？」
「私はあのくそばかの手がかりを掴んだし、アキレスは伴侶を見つけたし」
他にもいろいろだな、染めの技術も見てこれたし、あの城壁のこしらえは館造りの参考になるぞ、と良かったことを指折り数えるオデュッセウスの頬に、そっとくちづけた。そうせずにはいられなかった。
「なななんだ？いきなり」
驚きながらも嬉しそうにオデュッセウスは言った。面食らいながらも赤い顔に、くちづけを受けた頬を、手で押さえながら。
「したくなったから」
夜空に照る、満月よりも晴れやかな顔をして、笑って言ったのだった。