「ヴィゴ、な、なんだいそれは……っ」
ショーンは後ずさりながらそう言った。
「これ？これはマニキュアだよ、ショーン。見たことない？」
イギリスにはこんなのない？と小首を傾げてヴィゴは言った。もちろん問題はそんなことではない。狭い室内でドアはヴィゴの後ろにあって、あとずさる自分の足にはベッドがもう触れていて、退路を断たれていることこそが問題なのだった。
「マニキュアくらいは知っているけどね、ど、どうして君がそんなものを持ってるんだい？」
これ以上行けなくなったショーンに、ヴィゴは悪役よろしくふふふふふとかふくみ笑いをしながら一歩一歩近づいていった。気分はもう、地下室に閉じ込めた令嬢や少年探偵にしのびよる、マントにシルクハットの怪人だった。
「買ったから」
もちろんだよダーリン！と高らかに宣言されてもショーンの恐怖は去らなかった。入手経路を知りたいわけではなかったのだから。
「そ、それでいったい何をどうしようと……？」
ショーンはこわごわと聞いた。完全に怖いもの見たさ、だった。ヴィゴは得たり、とうなずきにしゃりと笑った。ちょっとコワイ。「この間ペディキュアした女の人と仕事してさ」
「『バニティフェア』だろ？見たよ」
それがどうしたの、とショーンはおっかないのも忘れて聞いた。
「触るか触らないかのところでこちょこちょやってたらさ」
「うん？」
「是非ともショーンでそれをやってみたくなってさ」
「は？」
「今度あったら塗ってやろうと思って、買っておいたんだ♪」
ヴィゴの手の中には、キラキラひかる赤い液体の入った小瓶。つまりはそれを。
「私に塗ろうっていうのかい――――っ！？」
「手には塗らないよ。アヤしい人みたいになっちゃうから」
「当たり前だ――――っ！！」
いや足にもやめて、お願いやめて！という暇もなかった。ヴィゴはやんちゃした若かりし頃に鍛えた技でもって身を沈めると、一気にショーンの足をつかんで持ち上げた。「うわっ！」
狙いたがわずショーンはベッドに仰向けに倒れされた。
「な、な、な……！」
ショーンだって、それ相応に鍛えていたが気を許した相手にふいをつかれて、ベッドに仰向けにころがされればビックリする。おかげでその間に靴下を脱がされた。靴はとっくに脱いでいた。ロスのモーテンセン家では家の中で靴を履くものはあまりいないので。
「や、やめろヴィゴ！」
「ふふふふふ、誰も助けちゃくれないぜ。あきらめるんだな」
ヴィゴは楽しそうにワルい人をやっていた。
「うわわっ！」
「暴れると変なところに塗っちゃうぞ〜♪」
両膝を抱えられて、出来る限りじたばたしているさまはまるで、落花狼藉をはたらかされる乙女のようだった。「いやーやめてー誰かたすけてー」
「ふふふふふ、おとなしくしなかわいこちゃん。何もイタいことしようってんじゃないんだぜ……」
言いながらヴィゴは、まずは一番塗りやすい親指の爪から〜と楽しげに塗り始めた。まさか蹴っ飛ばすことも出来ずにショーンはくすぐったいやら情けないやらでおかしな顔になっていた。
「ヴィゴ……やめてくれ、頼むよ……」
「これだけこれだけ♪うん、セクシーだよ、ショーン♪」
「あっそ……ちょっ、こら！いったいどこを……あっ！そん、なとこ……どこ舐めてるんだ、ヴィゴ――――！っ？」
「ふふふふふ♪」
部屋には無粋なシンナーの香りと、マニキュアを塗るだけではない、ペタペタという音が響いていた。