「甘いな」
ヘクトルの頬が見る見る赤くなっていった。
アキレスの盾が起こす風は強く、まるで思い切り殴られたかのようだった。口の端からは血が一筋流れ落ちた。とっさに歯だけは食いしばることが出来たが、あれが当っていたら今頃ヘクトルは立っていることは出来なかっただろう。それくらいの威力があった。
「どうした？かかってこないのか？」
対するアキレスは余裕ある笑みを浮かべてヘクトルを見つめていた。
トロイの浜辺、アポロンの神殿の中の暗い祭祀の室の中で、ヘクトルはアキレスと対峙をつづけていた。獲物を値踏みする獅子のような目のアキレスは脅威だった。
その力量は計り知れないほどで、ほんの数合刃を交えただけで強さのほどが知れた。差は紙一重なのかもしれなかった。しかし、たった紙一枚にすぎないものであろうとなかろうと、差は差、確実に自分のほうが劣っていることをヘクトルは交えた刃の向こうでひしひしと感じていた。
この狭い部屋に押し入っても剣を振るうことは出来ないと思っているのか、誰も入っては来ない。それも、トロイの守備隊が来るならよし、もしもアキレス率いるミュルミドンたちが来ようものなら、それが自分の最期になるだろうと思った。
ヘクトルは拭うことの出来ない汗をしたたらせ、口の中にひろがる血を唾液とともに吐き捨てた。剣を構え、アキレスに向きなおった。アキレスは剣を持つ腕で頬を流れる汗をぬぐった。その余裕が憎かった。自分はもうじき、斬り殺されるかもしれないというのに。
「――――あ？」
しかしそうはならなかった。
「ようやく無粋なものなしにおまえの顔を見ることが出来た」
アキレスは嬉しそうにヘクトルの冑をはずし汗に濡れた髪に手を差し入れた。
「えーと？」
「ヘクトル……やっとこうできたな……」
ヘクトルの剣を叩き落すとアキレスは、斬られる！と覚悟を決めたヘクトルの思いとは裏腹に、自分もまた剣を収めた。アキレスの突然の行動に盛大に疑問符を浮かべているヘクトルを引き寄せ、冑をはずし、顔を近づけるうちにもアキレスに押されるままに身体は傾ぎ、やがては――――。
「はなせっ！おいこら！……やめろ――――！！」
ヘクトルの恐怖の叫びは、遠くトロイの王宮までも届いたということだった。