「……あ」
彼としてはささやきよりも小さな呟きのつもりだったのだろうが、あいにく相手が悪かった。何しろ相手は人を超えた存在、宇宙人、スーパーマンなのだった。
「どうした、ブルース？」
可聴域はとんでもなく広く、全世界をパトロールするために、宇宙空間に出てもＯＫなくらいなのだった。街を守るバットマンとしては、それがちょっと悔しかったりもするのだが。
「……なんでもない」
それの一体どこいらへんがなんでもないに該当するのかを、レポート提出して欲しいものだ、と思うくらいに完璧に、何かありましたと顔どころか全身で言っているようなブルースを見下ろしながらクラークは、しようのないことにかけては、右にも左にも出る者のないこのごうじょっぱりをジロジロ見た。別名スキャニングとも言うべきその目つきで。
「歯……だな、ブルース。虫歯だな？」今日も今日とて人々の平和を守る者たちは、いつもの町境で落ち合っていた。
深夜の小規模慰労会の友といえば、某執事謹製の軽食と相場が決まっていて、こんなときでもなければなかなか、家庭料理にありつくことのない一人暮らしのクラークには、なかなかにありがたいものではあだった。しかし、ブルースはそれをいつも食べているわけで、栄養満点のそれを食べている最中に飛び出すこともあって、もちろんこの夜食のあとに歯を磨くとしたら食べてすぐなど望むべくもなくて。
「な、なにを馬鹿な……」
言っている声がもう、肯定しているも同然だった。
そういう不調をクラークから隠すことは不可能で、それに何度も助けられたことがあるのもまた事実だった。しかし、今日のこれは、あまり指摘されたいことではなかった。
実は歯は、少し前から痛んでいたのだった。気取られればきっと、有能な執事はたちまちかかりつけの医師を呼んでしまう、ブルースはそれを避けたかったのだ。大富豪も人の子、歯医者が嫌いだったのだ。「ブルース、遅くまでやっている医者を知っている」
「い、今から行けというのか……」
真面目な顔をしてそう言うクラークに、心の準備が……とブルースはためらった。
「今行かなければいつ行くんだ。そういうのは、早いに越したことはない」
二の足を踏むブルースが後ずさった分だけ踏み出したクラークは、怖いくらいに真剣で、執事や館へよく来る少年達同様、こういう時には逃げられないことを、ブルースはよく知っていた。しかし、それでも無駄な足掻きを試みた。
「や、いや……か、帰ってから……いやもうこんな時間なので、明日にでも……」
「ブルース」
ずい、っと近寄るクラークの顔は怖いくらいで、ブルースは思わず喉の奥でひっと悲鳴をあげた。聞こえていないはずはないのに、今度の声はスルーされた。
「な、なんだい、クラーク？」
「このままかついで行かれるのと、大人しく自分で行くのとどちらがいいかな？」
クラークは、にっこりと笑ってそう言った。
「う……」
執事に少年たちにクラーク。ブルースのためを思ってものを言う人たち。
その提案を前にしては。
ブルースに選択の余地など、存在しないのだった。