厳しい冬の終わりとともに、水温む季節がやってきた。
水が温かくなれば、海にも入りやすくなり、海に入れれば貝も集めやすくなるというものだった。
「あたたかくなったら、あなたにも貝の飾りを作りましょうね」
貝で装身具を作るのはテティスの趣味で、厳選した貝でこしらえたものを、これぞと思った相手に贈るのもまた趣味の一環だった。
だから、アキレスはもちろんのこと、パトロクロスもたくさん持っていたし、いつもご苦労さまという慰労の意味を込めたものを、エウドロスをはじめとするミュルミドンたちも持っていた。
テティスの作る貝の首飾りはことに、若い男たちに人気だった。お守りになるというのだ。身を守ってくれるのはもちろんのこと、意中の相手に思いの丈を伝えれば、必ず色好い返事がもらえると、まことしやかに噂されていた。テティスは侍女たちや側仕えの者たちにも何かの折には贈っていたので、プティア全土で持っていないものがいないくらいだった。「あなたには、どんなものがいいかしらね」
娘のように裾を持って浅瀬を渡りながらテティスは言った。
「不調法なもので……見当もつきません」
海には、テティスと一緒にヘクトルも入っていた。自分のために貝を拾うという女性、しかもアキレスの母とあらば自分にとっても義母同然の人だけにやらせるなど、そんな真似は出来ないとばかりに、ヘクトルも海に入っていた。
「首飾りもいいけれど、腕輪とかもいいかもしれないわね」
自分のしている腕輪をヘクトルにかざして見ながらテティスは馥郁と笑った。
「足輪とおそろいにしてみようかしら？鈴もつけて。動くたびにしゃらしゃら鳴るの。でもそれじゃあ、踊り子か遊び女のようかしら？」
不名誉な装飾品と嫌がるかしらとテティスは眉をひそめた。
「いいんじゃない？」
そう言ったのは、同じく浅瀬に入っているものの、目当ては食べられる貝であるパトロクロスだった。「アキレスは喜ぶよ、きっと」
「………」
多分パトロクロスの言うとおりだろう、とヘクトルも思った。アキレスのことだからきっと、もしかしたらヘクトルに、鈴つきの足輪をつけたまますることを望み、足輪を鳴らすヘクトルの足を、ことさら高く掲げて音を楽しみながらの交わりを要求するかも……・。
「にぎやかなの好きだもんね、アキレスは」
そう続けたパトロクロスは、浜辺で自分たちのことを見ているアキレス、というよりは控えているエウドロスに向かって手を振った。
「おーい！」
「………」
春のうららかな陽光降り注ぐ中にあるまじき方向に想像が行ってしまいそうになったヘクトルは、頬を赤らめながら己を恥じた。恥じて、よりいっそう貝拾いに精を出した。
「あれ、どうしたの、アキレス？」
恥ずかしくて顔を上げられないでいたヘクトルは、パトロクロスがそう言うまで、アキレスがやってきたことに気付かなかった。「まったく、もう。あなたが来ると貝がみんな逃げてしまうわ」
お小言のようだったが、テティスの目は笑っていた。
「お迎えも着たことだし、そろそろ上がりましょうか、パトロクロス」
獲った貝を持って、浜辺に向かったことでもそれは明らかだった。
「アキレスも早くおいでよ！」
パトロクロスの収穫は、待っているエウドロスの熾した火によって、さっそく食べる予定だった。
「…ど、どうした…、のだ、アキレス？」
努めてなんでもない風を装ったヘクトルだったが、アキレスにその手は通用しなかった。
「赤くなっていた」
「え……？」
アキレスは、距離があり、すぐに暗がりに引っ込んでうつむいたヘクトルの顔色を、見分けたというのだった。「気分でも悪くなったのかと思った。熱でもあるのか？」
そう言ってアキレスは、こつんとヘクトルの額に額をあわせた。
「い、や……熱はないと思うが、アキレス……」
熱をみるのが目的のはずなのに、アキレスの腕はヘクトルの腰にしっかりとまわされていた。
「よかった。大丈夫そうだ」
心底安堵した様子でアキレスは言った。そのままの体勢で息を吐いたアキレスはまるで、神に感謝をと言わんばかりだった。大好きなプティアの海に、母テティスと従弟のパトロクロスそれから、何にもかえがたいヘクトルがいた。
アキレスにとってそれは、幸福そのものの光景だった。ヘクトルが、くしゃみひとつをしても、アキレスは気付くだろう。たとえそれが、視認出来そうもない距離離れていても。「心配かけてすまない、アキレス。わたしは大丈夫だ」
アキレスの腕の中でヘクトルは微笑んだ。それを見てアキレスもまた微笑んだ。どちらの衣の裾も、すっかり水に浸かって濡れていた。
「テティス様が、わたしに腕輪と足輪を作ってくださるそうだ。鈴をつけて……でも、わたしにそんなかわいらしいものが似合うだろうかと思って……」
「ヘクトルになら、なんでも」
「アキレス……」
アキレスは愛しそうとしか言いようのない目でヘクトルを見つめて言った。
「あんたに似合わないものはない、ヘクトル」
そう言ってアキレスは、浜辺からヘクトルを隠すようにして、また頬を赤らめたヘクトルにくちづけたのだった。
ほのぼのアキヘクです。
春はほんわかしてていいですなぁ。
古代ギリシャじゃ、花粉も飛んでないだろうし（笑）。