「良い月夜だね、バットマン」
夜の街を見下ろせるいつもの場所にブルースはいた。
そこへ、特徴のある格好のクラークがふよふよ浮かびながら声をかけるのも、いつものことだった。
「……邪魔するな」
確かに月はきれいだった。
明日あさってには満月になりそうな、昇りはじめのきいろいまるいお月さま。
その明かりを頼りにブルースが１人ステップを踏んでいた。
「パートナーが必要なんじゃないかと思ってね」
ブルースがおさらいしているのは、どう見てもワルツのステップだった。街も人もこれから本格的な夜の時間に向かって動き出そうとしていた。
だからこそ、こんなビルの屋上に注意を向けるものはなかった。
月の明かりと遠くのネオンの瞬きを受けながらブルースは、１人でワルツを踊っていたのだった。翻るケープは闇と同じ色で、ブルースを容易く同化させてしまっていた。それを見逃さないのは地球の人間を超えた存在である、クラークくらいのものだっただろう。「どうしたんだい？ワルツくらい、君ならお手のものだろう？」
そっと地上に降り立ちながらクラークは言った。仮にもウェイン・エンタープライズの社主が、ダンスのひとつも踊れないはずがなかった。それなのに、何故いまさらワルツの練習が必要なのか？よほど気の張る相手と踊るか、チャンピオンズダンスでも踊ることになったのだろうか？
鍛え上げられた身体の奥深くに眠る、心優しいのんきな脳をフル回転させても、答えは出てこなかった。
「……ティムとディックに、教える約束をしたんだ……」
気にしないことに決めたのか、ブルースはクラークがいても踊り続けた。ちなみにステップは男性用だった。
「ティムとディックが？そうか、……もうそんな年頃なんだ……」
昔を懐かしむ目をしてクラークは言った。両親が健在であったならブルースも、学生のダンスパーティを楽しむこともあったのかもしれなかったが、あいにくブルースの生活信条に、『プロムに出て意中の女の子と踊りまくる』という項目は存在しなかった。だから、ワルツだろうとタンゴだろうとフォックストロットだろうと踊れたが、それはあくまでステップを知っているということにすぎず、踊りを楽しんだり、人に教えられるというものではなかった。「それで、君が教えることになったのかい？」
ただ単に教えるだけなら、アルフレッドのほうが適任だろう。もしかしたらルシウスが相手役をしてくれて、熟年男２人の、華麗なステップが拝めるかもしれなかった。しかし、ここでブルースがこっそり練習をしているということは、ティムかディックかアルフレッドか、はたまたその全員の合意の下なのか、ブルースが依頼されたようだった。
「……そうだ」
ゴッサムに君臨するセレブリティの１人であるブルース・ウェインならば、よりどりみどりの美女とさんざん踊っているだろうに、子供たちに教えるにあたっては、ついついこうしておさらいをしてしまうブルースなのだった。
それも１人で、初歩も初歩、健全な一番最初のステップを思い出しながら。
「相手役は要らないかな？」
「……おまえが？」バットマンのマスクをかぶっているので、眼力がパワーアップしているブルースにそう申し出るのは、なかなかに度胸のいることだった。身体だけじゃなくて、踏まれても蹴られてもこうして（比喩）、ブルースとつきあっていられる毛が生えているに違いない心臓こそが一番タフだとは、年若い友人たちの共通の意見だった。
「そう。練習には相手がいるだろう？」
そう言ってクラークは、胸に手を当て一礼した。
「……おまえは女性役だぞ？」
「もちろんさ」
さぁどうぞホールドしてください、とポジションをとったクラークの厚い胸板は、夜目にも眩しかった。おずおずと伸ばしたブルースの手を、クラークは離すまいとでも言うようにしっかと握り締め、音楽なしで踊りだした。足はワルツのステップを踏みながら。
ブルースの胸はタップダンスを踊りだしていたのだった。
実のところ大変に苦労しることを告白いたします。
『バットマン』と『スーパーマン』、『蝙蝠』と『超人』なら
大丈夫なんですが、『ブルース』と『クラーク』と言われると急に
「……どっちがどっちだっけ？」状態になってしまうのでございます。
おかしなところで苦労する超人蝙蝠。
その昔、『アラルゴン』と書かないよう気をつけていたことを
思い出しますです。