「かゆいところはございませんかぁ」
大好きなエリックのくるくるの髪をわしゃわしゃやりながらブラッドは尋ねた。
「……ないけど」
髪から身体から、全身泡まみれになったエリックは、ちょっと不機嫌にそう答えた。
「じゃあ流すぞ。目をつむってくださぁい」
言われたとおりに目を瞑ってからエリックは言った。やはりここはひとつ、ちゃんと言っておかねばと思ったのだった。
「……ブラッド」
「……はーい！」
エリックのひんやりした声とは裏腹に、元気いっぱいを装ってブラッドは返事をした。
「……今度やったら承知しないよ？」
「……もちろんでっす！」
ブラッドの声はあせるあまり、いささかすっとんきょうな、うわずったものになってしまった。エリックは、部屋で待っているはずの、新しいスーツのことを思った。新調したばかりで、今日のプレミアに着ていこうと下ろしたばかりなのに、晴れの舞台に出る前に、すでにぐっちゃんぐっちゃんだった。
「どうかな？」
プレミアに出かけるにはまだ大分時間があったが、初めての店で仕立てたおニューなので、早めに準備しておきたかったのだった。
「すごくいいよ」
ライトグレーのスーツは、黒髪のエリックにとても似合っていた。
スーツより少し濃い目のグレーのシャツと、さらにそれより濃いタイは、本当にエリックによく似合っていた。
「夢のような光景だ」
ソファで新聞を読んでいたブラッドは立ち上がり、くるりと回って新品のスーツ姿を披露してくれるエリックのすぐそばまで行くと、抱きしめるような形で手を広げ、目を細め、自分にとっての正真正銘の真実を述べた。
「オーバーだな」
エリックは頬を赤らめぶっきらぼうにつぶやきうつむいた。「俺が、嘘のつけない体質だ、ってエリックはよく知ってるだろ？」
エリックの反応に気を良くしたブラッドは、エリックのスーツに皺を寄せないよう細心の注意を払いながら腕を回した。
「何を、言ってるんだか……」
抱きしめられ頬を染めながらも、エリックは嬉しそうだった。
「本当のことを言ったまでさ」
薔薇色に染まった頬にくちびるを寄せてブラッドは囁いた。これだけ近ければ、どんな小さな声でも聞こえるだろう近く。耳にくちびるが触れそうなくらいの距離で、声と一緒に、息を吹き込んでいたのだから。
「………っ」
エリックは気の毒なくらいに身をすくめた。それでも懸命に距離を保とうとするエリックがいじらしくてついブラッドは、より強くエリックを抱き寄せた。「エリック……」
「ダメだったら……ブラッド……これから……出かけるんだからっ…！」
そう言いつつも強く出られないのは、エリックも気づいているからだった。
「まだ時間……あるだろ……？」
ブラッドの言うとおりだった。どこかでそう考えているから、エリックも抗いきれずにいるのだった。ブラッドの抱擁はいつだって心地よく、ブラッドの弾む息は、いつだって熱く自分を蕩かした。抱きしめる腕の力が強さを増していくブラッドに引きずられないよう強く自分を律するのは、並大抵のことではなかった。
「やめろってば……ブラッド……こ、…れ……」
これが最後だぞ、とエリックは言うことが出来なかった。
「今日も愛してるよ、エリック……」
かくして新品のスーツは、あわれ脱ぎ捨てられることとなったのだった。
「熱すぎないか、エリック？」
ブラッドはずっと甲斐甲斐しかった。満ち足りているからとも言えた。太陽のような笑みを浮かべ、今も上機嫌でエリックの髪をブローしていた。
「……大丈夫」
そう答えたものの、ちょっと全身運動して、それからあわてて風呂に入り、こうしてぼーっとブローされているうちに、エリックは眠くなってきてしまった。どうしてくれよう、と思いながら目をこすっていると、ブラッドにその手を止められた。
「これが終わったらコーヒー入れるよ。それとも、一発で目が覚めるような、にがーいお茶のほうがいいかな？」
「……どっちでも……」三分の一くらいは寝そうになっているエリックは、先程までとはまた、違った意味でかわいらしかった。ブラッドは怒られないよう細心の注意を払ってエリックの、ドライヤーの熱風でぽわぽわになっている毛先に、キスをした。
「スーツにアイロンかけておくよ」
「うん……」
夢見心地でエリックは答えた。
「プレミア会場まで送っていこうか？」
「……うん……」
どうやら本格的におねむになってしまったらしいエリックを、ブラッドは新たな趣味が芽生えそう、と思いながら着替えさせた。
ちょっとブローしすぎたさらさらヘアでプレミア会場に到着して、天下のブラッド･ピットを運転手にしたヴィラン、とタブロイド紙をにぎわせるのは、もう少し後のことだった。