「メアリ・モースタン嬢と結婚することになったよ」
ワトスンがそう告げたことになったときのホームズの顔こそ見物だった。
目を見開いて顎をだらりと落とし、朝食の最中だったものだから、エッグスタンドとスプーンを手にしたまま『衝撃』という題名の彫刻作品のように固まってしまったからだった。
「ホームズ？ホームズ？おい、シャーロック・ホームズ！」
ワトスンが、これは診察鞄がいるか水でもぶっかけるか一発張り手でも食らわせるべきかそれとも、と考えているとようやく。
「……なんだって？」
地の底の住人だってもう少し朗らかな声を出すだろうというほどひどい声でホームズは言った。
「メアリ・モースタン嬢と結婚することにした、と言ったんだよホームズ」
聞こえなかったのかい？耳に異常でも？とワトスンは、いつものように身を乗り出し、ホームズの耳を引っ張ろうとした。「耳は平気だ！」
素早く耳をガードして、ワトスンの手が届かないよう椅子の奥に縮こまったホームズに内心舌打ちしながらワトスンも浮かせていた腰を下ろした。
「なら聞こえただろう？わたしは結婚する」
「……どうしてそんなことを」
まだエッグスタンドとスプーンを持ったままホームズは言った。
「どうして？彼女のことが好きになったからに決まっているだろう？君も褒めてたじゃないか、彼女はたいした傑物だ、と」
「あれは別に……」
「食べるなら食べる、食べないなら、それをテーブルに戻したらどうだい、ホームズ？」
一足先に食事を終えたワトスンは、お茶のおかわりを注ぎながら忠告した。言われたとおりホームズは、それらを置きしょんぼりと下げたままの肩を奮い立たせて言った。
「でもなんで結婚なんて……」
「しようと思ったときにするものだよ、結婚というものは」
「……そりゃそうだが、何も君がすることはないだろう」
この言い草には、さしもホームズの扱いになれているワトスンも吹き出した。「強制されたわけではないよ。彼女を愛してる。彼女は医者のよき妻になるだろう」
「……僕だって……」
「まだお互いの意思を確認しあっただけだが、彼女の親代わりの人たちへの挨拶や、新居が見つかり次第引っ越すことになると思う」
「……引っ越すだって！？」
これから天地がひっくり返るので、しっかりお掴まりくださいといわれても、これほどびっくりすることは出来なかろうというほどの驚きようだった。
「当たり前だろう。間借りしている部屋だけで妻と新生活が送れるとでも？」
ワトスンは済まして言った。ある程度予想していたとはいえ、ホームズのあまりの驚きように内心では少し、胸を痛めていたけれども。
「……聞きたくないっ！」
ついにホームズは耳を塞いだ。
「それで今度、改めてメアリと一緒に食事でも……ホームズ？」
「……僕は何も聞いてない！！聞いてないぞっ！！」
そう言ってホームズは、寝床に飛び込んだ。それは、本来の意味で言うところの寝るための床、すなわちもらいものの毛皮の上の毛布の中だった。「ホームズ！」
そこにいれば、悪いものはやってこないとばかりに毛布を被る探偵と。
「聞きたくない！」
困惑の表情で立ち尽くすもうすぐ結婚予定の医師との。
「往生際が悪いぞ、なんだ、わたしがいなくなるくらいのことで！」
「嫌だっっ！！」
ついにホームズはわめき出した。
朝食の席でいったい何があったのかと、階下のハドソン夫人は思ったが、自らの安寧のために、懸命にも知らぬふりを決め込んだ。何よりホームズのところにはワトスンがいる。難事には、エキスパート中のエキスパートに任せておくべきだった。
もうすぐその最大のエキスパートがいなくなってしまうという恐ろしい近未来のことを、このときまだハドソン夫人は、知る由もなかった。