「……なんだこの有様は」
部屋に入るなりワトスンは言った。
そこは、人の住む部屋の残骸だった。部屋だった、と言ったほうがいいかもしれないくらいの様子だった。
「…ん……ワトスンっ！？」
暗がりの奥地の、前人未到の盛り上がった部分がいきなり口をきいて起き上がった。その勢いがあまりにも良かったので、ついた手を変なところに置いてしまい、思い切り滑ってしまった。
「大丈夫か、ホームズ」
それ自体はいつものことだったが、あまりに長い時間そのままだったので、さすがに心配になってワトスンは尋ねた。
「……本当に、ワトスンか？」
ややあって聞こえてきたのがそんな声だったものだから、ワトスンはくるりと踵を返して帰ろうとした。「離したまえ、ホームズ」
立ち去ろうとしたワトスンのズボンの裾は、ホームズの手にしっかりと掴まれていた。
「……嫌、だ」
「ならちゃんと起きたまえ」
ズボンの裾にかかっていたホームズの手を取って起き上がらせた。
「うん……」
寝巻き代わりなのか、だぶだぶのシャツからのぞく首も、掴んだ手も、ずいぶんと細くなっていた。この分だと、また食べてないな、とワトスンは思った。
さっさとこの汚穢に満ちた部屋から引っ張り出して、何か滋養に富んだものを口にさせなくてはなるまいと、固く心に誓った。
「起きる……」
まだ半分以上寝ぼけているようなホームズを起こすことにかけては世界一の医師は言った。
「事件だぞ、ホームズ」
「え？」
「レストレード警部が下で待っている」
「え？え？」「早く着替えたまえ。ああ、まともなシャツが１枚もないじゃないか！」
「え？え？え？」
カーテンを開けると、計ったようにハドソン夫人が、お茶と軽食の載った盆を持って入ってきた。なるべく息を止めながら。
「ここに置きますよ、ワトスンさん」
「ありがとう、ハドソン夫人」
「どういたしまして」
ほとんど息をせずにそれだけ言うと、ハドソン夫人は後も見ずに部屋をあとにした。
「ほらこれを食べて」
「……ワトスン……」
「何だい？お茶だ、ミルクを入れたよ」
「……どうして……」
「ほらちゃんと持って。こぼすなよ」
座ったままのホームズの世話を、ワトスンは甲斐甲斐しく焼いていた。
「だってケッコン……」
「結婚したら、君のところに来ちゃいけないのかい？だったらすぐに帰るから言ってくれ」
「嫌だ！」
間髪入れずにホームズは言った。「結婚するとは言ったけれど、君を手伝わないとは一言も言っていないと思ったが？」
実のところワトスンは、発表するあてもなかったが、この稀代の変人の記録を取っていた。その機会をみすみす逃す手はなかった。何よりこの手のかかる男は、極めつけに面白い男でもあったので。
「……ワトスン！」
「ああ、ほらこぼしてる！それを食べたら着替えたまえよ。まったく、こんなこともあろうかと、着替え一式を持ってきておいてよかった」
「うん！」
たちまちご機嫌になったホームズは、スコーンを頬張りながら元気に答えた。
「だからクリームを頬につけるなと……ああ、もう」
そう言ってワトスンは、ホームズの頬にべったりついたクロテッドクリームを舐め取った。
「なんだい？」
いつものことをやっただけのつもりのワトスンは、この上もなく嬉しそうな表情のホームズに尋ねた。
「いいや、別に。また君とこうして事件に当たれるのが、嬉しいだけさ」
だからホームズも答えた。
とびきりの笑顔を浮かべて。