「ホームズ！」
珍しくも荒々しく、ドアが開けられた。
「……おはようワトスンいい天気だね」
言葉だけを聞いていれば、ごく普通のセリフだったが、それも常識的な格好をしていてこそだった。厚いカーテンは閉めっぱなし、床の敷物の上に毛布にくるまったままでは、どんな時候の挨拶も意味を成さなかった。
ワトスンの声で目を覚ますまでは、そこでそのまま寝てましたということは、何も名立たる探偵の推理力を用いるまでもなかった。四方八方に跳ねた髪と、いつから着ているのか分からない、皺くちゃのシャツが、如実にそれを物語っていたからだった。
「何がいい天気だ。いつからこうしてるんだ。ハドソン夫人が怖がって近づかないじゃないか」
足音も高くホームズの、物置なのか作業所なのかガラクタ置き場なのか分からない部屋に足を踏み入れたワトスンは、まずカーテンを開け窓を開け、それからホームズを引きずり起こした。「さあ、どこがいい天気だって言うのかね、ホームズ」
窓の外は雨だった。ずいぶん前から降っていることは、窓から入ってくる雨の量の多さからも察せられた。
「雨も大事だよ、ワトスン。晴れだけが好天と決め付けるのは、まったくの恩知らずというものだよワト……ぶっ」
寝起きにもかかわらず、立て板に水とばかりに、とうとうと小理屈を並べるホームズの耳を軽く引っ張った。
「失礼……耳に異常はないようだね」
よれよれのシャツにずり落ちたサスペンダー、道化師のようなゆるゆるのズボンで毛布にくるまっているホームズと違い、ワトスンは荒野のような部屋に分け入るときでも紳士的な身なりを崩していなかった。
「目も正常だ」
両目をあっかんべぇ状態にすると、自然と口が開く、その隙に舌の色も見たワトスンは言った。「すべて正常。起きたまえホームズ。世間はとうに活発に活動してるぞ」
「……僕は世間じゃない」
もごもごとホームズは言った。ワトスンが何を言いたいか、百も承知だからだった。
「こんな荒れ果てた輩が標準規格じゃないのは世界にとって幸いだよ。ほらホームズ、風呂に入るんだ」
用意は出来てる、とワトスンはまだ座り込んだままのホームズの両腕をさらって、バスルームに引っ張っていこうとした。
「風呂は嫌いだ」
「君は嫌いでも、風呂は君を待っている。さっさとしないか」
結局ホームズは抵抗むなしくずるずる引きずられ、風呂桶に漬け込まれることとなった。すぐそばには、同じく洗われたばかりと思しきグラッドストーンが、せっせと身繕いをしていた。
口では何のかの言っていても身体で抗っていないのだから当然だった。服のまま漬け込まれたホームズの衣服を、上着をとったワトスンは器用に脱がし、洗面台にかけた。どれも洗濯に出す必要があるからだった。「いったいどうしたらここまで汚せるんだ。泡が立たないじゃないか……」
つまるところホームズは、風呂桶にのべっと寝そべったまま洗ってもらうという、王侯貴族のような奉仕を感受しているのだった。
「……ワトスン痛いよ……」
「少しぐらい我慢しろ」
そんな会話を交わしながら。
「……久しぶりだね、君に洗ってもらうのは……ああ、いい心持ちだ……」
「今日こそメアリに会ってもらうから……わっ」
いきなりホームズは身を起こした。おかげでワトスンも大分お湯ををかぶる羽目になった。
「気分が悪い！今日は駄目だ！！」
「ホームズ！」
そのまま、素っ裸の泡だらけでホームズはバスルームから脱走した。
「待て！せめて洗ってから行け……ああ、もうまったく……ホームズ！」
タオルを持ってワトスンは追いかけた。
いつもの光景、いつものやりとり。