ヘクトルがプティアで過ごすようになってから、アキレスにはひとつ習慣が増えた。
それまでは、雷が鳴ろうと大軍が進軍を始めようと起きやしないほど熟睡型だったのが、夜が明ける頃に、必ず目を覚ますようになったのだった。
そのまま起き出していれば、独身時代は起こすどころか居場所を探すのに骨を折らねばならなかったエウドロスが泣いて喜んだことだろうが、目を覚ますだけで、寝台から出ようとはしなかった。
「…ん……」
アキレスは
「……ヘクトル？」
「……う、ん……」
毎日決まって夜明けとともに目を覚ましていた。そして必ず、ヘクトルの寝顔を眺めていた。ヘクトルと出会う前までのように、いつまでも朝寝を決め込んでいると、そうでなくても早起きのヘクトルはとっくに起き出してしまって、せっかくのかわいい寝顔を堪能することが出来ないからだった。「……今日もいい天気だぞ、ヘクトル……」
聞こえないくらいの小さな囁きなので、ヘクトルが目を覚ますことはなかった。覚ましても構わなかったが、真面目なヘクトルのことだから、目を覚ませばそのまま起き出してしまうかもしれなかった。それは避けたかった。なにしろたいていの場合、前夜にアキレスがヘクトルに少々無理をさせていたりなんかするので、せめて充分な睡眠を取らせてやりたかった。
「……くま？じゃないよな……？」
今は閉じられている、それは魅惑的な瞳を蓋しをそっと撫でながらアキレスは言った。角度を変えてなんども見てみたが、くまといえなくもない黒ずみがヘクトルの目の下にあると確認するにとどまった。なのでアキレスは、少し反省した。血行をよくすべく、起こさないようそっと揉み、それからくちづけた。
「ゆっくり休め……」
トロイにいた頃は、王子かつ総大将として範をたれるべく、夜が明けるや否や起き出して、兵舎や城内、城壁を見てまわり、将軍たちと打ち合わせ神官たちの報告を聞き、陳情に来た商人の話に耳を傾け貴族たちの要求を笑顔で煙に巻き――――それがヘクトルの日常だった。そんな我慢強く欲のないヘクトルの最初にして最後の、そして生涯最大の望みが、アキレスといたい、ということだった。もちろん当のヘクトルは、自分のことをわがままで欲張りだと主張してやまなかったが。
「……今日も、いい匂いだな、ヘクトル……」
アキレスが囁く甘い言葉に、聞こえているのかヘクトルはしあわせそうに微笑んだ。それを見たアキレスは、自分こそが幸福に包まれていると確信して、てれた。
こんな風にアキレスが起きて、ヘクトルを飽かず眺めていても、そのまま寝入っていることこそが、ヘクトルが気を許して安心していることを、何よりも証し立てていた。アキレスもまた、こんな気持ちになる日が来ようとは、思ってもみなかった。
「今日は、何をしようかな、ヘクトル」
髪を撫でながらそう呟いた。なんでもいいのだ。何もしなくたって構わない。
ヘクトルがいれば。