消えてなくなりたいとは、誰しも一度は考えることのひとつだったが、このときのブルース・ウェインもそうだった。
いつもの如く、遊び人兼ウェィン・エンタープライズ社長の仕事の一環として出席しているパーティの席でのひとときに、ふとそう思った。くだらない集まりだった。
判で押したような、似た顔ぶれが似たようなことをくり返しながら、パーティ会場という名の水槽の中を、ひらひらくるくる泳ぎまわっているようなものだった。
（……こんなくだらない集まりばかりだ……）
考えればついため息がもれた。唯一の救いは、ほんの少しの間でも、一人でいられることだった。袖にぶら下がるようにしていた女優やモデルたちは、ブルースがそれとなく挨拶をさせるよう仕向けた映画監督や人気俳優についていってくれたし、世間話のふりをして、このゴッサムシティ一の金持ちの独身男の気を引こう、引かせようとする恋人志願の若い娘や、そういった娘に心当たりのある男や女たちの魔手も今は、スペシャルゲストの大物歌手の歌声に惹きつけられていたからだった。水槽の中を漂っているのは、職務に熱心なボーイくらいのもので、ブルースはその中の一人から適当なグラスを１つ受け取ると、そっとバルコニーに抜け出した。ひとつの窓から小さなバルコニーに出られるタイプのそこを使うには、細心の注意が必要だった。
もしも先客がいたりすれば、お互い決まりの悪い思いをすることになるし、せっかく一人の時間を楽しんでいても、頭が金色に染まった女性にでも見つかったら、大変なことになるのは目に見えていた。幸いブルースはそんなへまはしなかった。
狙い違わず、バルコニーには誰一人いなかった。しかもそこは、大きな木にかくれるようになっている涼しげな場所で、ブルースは上着を取って伸びをした。
（ああ……生き返る……だが……）
本当に生き返る思いがするのは、自分が本当に生きていると思えるのは、あの屋敷の中でのこと。もっと厳密に言えばそれは、あのバットマンのためのケイブにいるときだけだった。（こんなのは……柄じゃない、からな……）
上着を脱いだらタイをむしりとりたくなった。それから、きちんとセットされた撫でつけられた髪に指を入れ、思い切りかき回したかった。袖をまくって、そして――――。
「お飲み物はいかがですか、社主？」
そのまま夢想のままに、ケープも着ていないというのに飛び出しそうだったブルースを引き止めたのはその声だった。
「……断りもなくなんだ」
険しい表情をしてみせても、不埒な闖入者はひるまなかった。
大きな身体に、窮屈そうな出来合いのスーツ、新聞社の人間であることを示すプレスカードに、腕前には似つかわしくないカメラがぶらさがっていた。そして手には２つのグラスに食べ物の載った皿があった。
皿を持つ手には、２本のフォークもあったから、よほど手が大きいか器用なのだろうと思わせた。実際は、この格好のときはおよそ、器用とはかけ離れた性格をしているのを、ブルースは良く知っていた。「すみません。お邪魔してます」
神妙にそう言ってはいるが、出て行く気がないのは明白だった。
「デイリー・プラネットはどういう社員教育をしてるんだ」
嘆かわしい、とブルースが眉間を押さえて小言を言えば。
「もう仕事は終わりました」
カメラを示してクラークが答えた。
「おまえの腕で、ちゃんと撮れているのか？」
「それは賭けです」
そんなことを堂々と言うとは、やはりデイリー・プラネットの社員教育は……と、ブルースは社主として本格的に頭が痛んできた。
「……今日はお一人のようだから……」
いつの間にかクラークは、パーティ会場からブル−スを隠すように立っていた。不思議なことに、喧騒まで遠くなっていったようだった。「お淋しいでしょう、社主？」
クラークの良く知る、いつものブルースならば。ティムやディックといった愛しい子供たちが、小鳥のようにさえずりあたりを飛び回り、ブルースの世話を焼くのに職務以上の情熱を見せる執事のアルフレッドがいて、居心地のいい部屋で、あるいはケイブで、好きな研究に没頭し、あるいは夜の街を飛び回り――――それがクラークの良く知るブルースだった。ブルースの本当にやりたいことだった。
「それに」
クラークはくるりと囲い込むようにブルースに近付いた。それはブルースに、いとわしい人間でなければ近くにいても何の苦にもならないのだということを知らしめていた。
「おなかすいてませんか？」どうも見ていると、来てからずっと、飲み物くらいしか口にしていない、とクラークは、アルフレッドのようなことを言った。もしかしたら、アルフレッドあたりに何か言われているのかもしれなかった。
「……余計なお世話だ」
素っ気なく言ったものの、クラークと食べ物の姿を見て、空腹を覚えたのは事実だった。
「でも、今のうちに食べておかないと。いつ何があるか分かりませんから」
「……そこまで言うなら、食ってやる」
クラークの顔が輝いた。
「ただし」
恭しく差し出されたフォークを受け取りながらブルースは笑った。
「その、気色悪い話し方をやめたらな」