「乾杯しよう」
「何に？『ドン・ファンの勝利』の成功に？それともブラッドの初舞台に？」
「今このときに」
ブラッドがそう言うと、エリックも笑った。
「今このときに」
『乾杯！』
春まだ浅い風になぶられながらでも、屋上の空気は心地よかった。
大舞台のあとの、火照った身体にはこれ以上はない場所だった。
グラスを触れ合わせて乾杯したあと、フルートグラスから一口飲んだシャンパンの味も、そのあとにしたキスの味も、どちらも一生忘れることはないだろうと。
２人は深くなるキスの間中そう思っていた。「いや、一時はどうなることかと思ったよ」
「まさかビアンキさんが急死するとは思わなかったから」
「太りすぎだ、ありゃ。前から調子悪かったってのに医者にもかからないし、食事も変えなかったし」
「なんだか子爵はひとりで大回転してたし」
「兄の伯爵への連絡が間に合って良かったな。地下の住居はもう引き払ってたし」
「パトロンの件はどうなるのかな」
「俺がなってもいいんだが。人前に出なくてもいいんならな」
発明品で稼いだから、とブラッドはシャンパンの残りを一気に呷った。
「エリックはいいけど、あまりこの面晒したくはないしなぁ」
「わたしも見せたくない」
もったいないから、と言ってブラッドの白い仮面にそっと手を触れると、その手を取られてキスされて。「そんなこと言うのはエリックくらいのもんだよ。普通は気味悪がるんもんだぜ？こんな酷い火傷の痕なんて」
「何故？この傷もブラッドなのに」
正真正銘の本気で、エリックは言った。
歌手として成功して、何度も気持ちを確かめ合って、そしてようやくブラッドは仮面を外してくれたのだった。
嫌ならいいけど見てみたいとエリックが言ったのはずっと前のことだったが、ブラッドの決心がつかなかったのだった。
生まれつきのものと、後年の火傷が原因というその痕は、確かに残るブラッドの容貌とのアンバランスさが痛ましかったけれども。
「ブラッドの傷だからやさしいし」
ブラッドみたいに、と言うエリックの気持ちには、嘘偽りは薬にしたくともなかったくらいで。
「……俺は前世でどんないいことをしたんだろうな」
「ぜんせ？」
「東洋の思想にそういうのがあるんだ。生まれる前にもこの世にあってそこでのことに今左右されるっていう……俺はどんないいことをしたっていって、今こんなに幸せなんだろうな？」「幸せ？ブラッドは今幸せなのか？」
「ああ」
「それにわたしも少しは貢献してるのか？」
「少しどころか――――全部だ。俺の幸せは全部エリックだ」
「それは大袈裟だろう」
「大袈裟なもんか……」
ブラッドはまたエリックにキスをした。マントにくるみこむようにして。
「じゃあわたしの幸せはブラッドだ……」
離れていくブラッドに、うっとりした口調でエリックは言った。とてもとても幸せそうに。
「エリック」
「なに……？」
「屋敷に戻ろう……もっとここにいたいか？」
「ブラッドのいるところにいたい……」
エリックのかわいい返事にブラッドは笑った。「鍵の掛かる部屋に行こう、エリック。誰にも邪魔されないところへ」
「行く……どこでも……」
「俺が馬車を運転するから」
「歩いてでも走ってでも行く……ブラッドと行く……」
「ありがとう、分かった。それにしても、相変わらず酒に弱いな、エリック」
「ブラッドと行くぅ……」
「はいはい」
立たせるとエリックはしがみつくようにブラッドの首に腕を回した。
「本物の怪人みたいに、空でも飛べると楽なんだがな」
人に見られずオペラ座の外まで出るルートを頭の中で算段しながら、ブラッドはエリックを抱えなおした。
「しっかり歩けよ、エリック」
「うん、ブラッド……」
歩き出す前にもう一度キスをした。
今度のキスを見ていたのは、屋上にある大ぶりな彫刻だけだった。