神殿の中で１人、ヘクトルは祈っていた。
ここでなら、ひとり静かにいることが可能だった。
ほかにはどこも『独り』になれるところなど存在しなかった。
国の支柱たる、ヘクトルの好む場所は。
人気のあることは結構、愛する国のために尽くすことに不満はなかった。
ただどうしてもひとりになれる時間だけが欲しかった。
それに今は。「ヘクトル様！お生まれになりました！男御子でございます！」
「そうか！アンドロマケは？」
「お健やかにございます。初産ながらたいそう軽いお産でようごいました……」
神殿に駆け込んできた女官は、満面の笑みでそう言った。
「そうかよかった……」
「スパルタ行きに間に合いまして、重ねてお祝い申し上げます」
「ありがとうテクトン」
女官の後から、副官たるテクトンもやってきた。この分では神殿を一歩出れば、雨霰と祝いの言葉を投げかけられることだろう。
「アポロンに御礼を申し上げてから行こう。先に戻ってそう伝えておいてくれ。テクトンは国中に知らせを」
「鐘はすでに鳴らすよう、陛下から伝えられております」
「おお……聞こえるぞ。では、頼んだぞ」人払いをし、ほっとため息をついた。
スパルタへ、大事の役目を果たしに出立するの日は、もう目の前に迫っていた。
そのための準備もさることながら、子が生まれたとなれば連日忙しくなるだろう。そのための手配はすべてヘクトルの肩にかかるだろう。またこうしてひとりになれるときなど、おそらくもうあるまいと思われた。
「………呼ぶな」
アポロンに感謝の祈りを捧げてから、ヘクトルはひとりの時間に別れを告げるべく立ち上がった。
「わたしを呼ぶな」神殿の外のざわめきが、一歩一歩大きく聞こえてきた。
その歓呼の声に応えるべく、気を引き締めた。
一歩外に出れば自分はトロイの王子。ただの『ヘクトル』ではなくなるのだ。
「誰も、わたしを呼ばないでくれ………」
耳を覆い、気をそらそうとしても、頭の奥から聞こえてくる声があった。
「呼ぶな――――」